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フレームの魔術師が創立「FELT」のブランドストーリー

トライアスロンの世界では抜群の成績と信用度を誇る「FELT」。創業者はジム・フェルトですが、彼はフレームの魔術師という異名を持ちます。

なぜジム・フェルトは「フレームの魔術師」と呼ばれるようになったのか。
彼はどのような実績を残したのか。

また、FELTは日本においてどのようなマーケティングを行い、誰がFELTに乗っているのか。

この記事では、FELTに関わる詳しい情報を提供します。

───────────目次───────────

1.創業までの歴史

1-1.サイクリストだった「ジム・フェルト」

画像引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jim_Felt_measuring.jpg

FELTの創業者「Jim Felt(ジム・フェルト)」は、南カリフォルニア出身です。故郷の実家は日本の町工場さながらで、父が航空産業のエンジニアだったこともあり、たくさんの工作機械に囲まれて色々な機械の使い方を習う幼少期を過ごしました。

そんなジム・フェルトが人生で初めて乗ったモトクロスバイクは、芝刈りのアルバイトして貯めたお金で自分で購入したものでした。そして、それから数年後には、自分で図面を引いて削り出したパーツを組み込んだバイクに乗ってモトクロスのレースに出場。いくつかの優勝を重ねます。

1-2.モトクロスのエンジニア「ジム・フェルト」

レースで勝利を重ねるようになると徐々に「ジム・フェルト」の名前は有名になり、やがて彼の元に、Kawasakiから製品開発のテストライダー兼エンジニアとしての誘いがあります。もちろん、ジム・フェルトはその誘いを受けます。そして、それ以降22年間は、ジム・フェルトはKawasakiを始め、Suzuki、Yamaha、Hondaなど日本メーカーのモトクロスバイクのエンジニアとして、合計8回の世界チャンピオンを経験します。

1-3.トライアスロンに出会った「ジム・フェルト」

エンジニアとしての仕事が非常にハードだったこともあり、ジム・フェルトは常に体を鍛えていました。そして、そんな彼は1982年、当時はまだ黎明期だったトライアスロンという競技に出会います。トライアスロンは、水泳・自転車ロードレース・長距離走の3種目を、この順番で連続して行う耐久競技です。

しかし、トライアスロンをいざ始めてみると、ジム・フェルトは自転車に非常に不満を持つようになります。モトクロス業界から見ると、ロードレースのフレームが非常に時代遅れだったからです。そこで1989年、彼は自身が乗る自転車のフレームを試作するのですが、それが当時のモトクロスのスーパースター「ジョニー・オメーラ」の目に留まります。そして、彼は趣味でトライアスロンをしていたので、ジム・フェルトにそのバイクの製作を依頼します。

ジム・フェルトとジョニー・オメーラは友人でした。
ですから、ジム・フェルトは快諾し、完成品を得たジョニー・オメーラはその自転車に乗ってとあるトライアスロンの大会に参加。そこで驚くことに、ジョニー・オメーラはその大会で優勝を果たします。

そして、その事実を知ったイーストンがジム・フェルトに接近します。

イーストンはアーチェリー用品の会社として始まり、1939年、最初にアルミニウム製のシャフトを製造すると、翌年にはアルミニウム製のスキーのストックの製造を開始。そして1969年には、アルミニウム製の金属バットの製造も開始して、1981年にはアルミニウム製のアイスホッケーのスティックがナショナルホッケーリーグに公認された企業です。現在では全世界で1000人以上の従業員を抱え、製造・マーケティング・流通・販売などさまざまな事業を展開しています。

が、当時のイーストンはまだ新興メーカーで、ちょうど自転車部門を立ち上げようとしていて、金属とチュービングに精通した技術者を探していました。そんな折だったものですから、イーストンはすぐにジム・フェルトと契約。自転車業界で成功するため、トライアスロンのレースで優勝するためのプロジェクトをジム・フェルトに一任します。

ジム・フェルトの仕事は完璧でした。
他のバイクメーカーは基本的にはタンゲなどのチューブメーカーからパイプを買って組み上げます。しかし、ジム・フェルトはアルミのブレンドから開発を開始。パイプの成型、さらには溶接までと、全てをゼロから作り上げました。

そうして完成した自転車は、当時最新鋭だったステルス爆撃機「B2」と同じ色のマットブラックに塗装され(ちなみにこれ以降すべてのFELTの最上級モデルには、常にマットブラックが採用されています)、「B2」と名付けられました。

1-4.FELTが有名になった裏話

イーストンのモデルとして開発された「B2」は、ポーラ・ニュービーフレジャーがレースで活躍したこともあり、一気に世間で話題になります。と同時に、FELTの名前も大きく取り上げられることになります。

その理由について、ジム・フェルトはのちにこう語っています。

「あのバイクはイーストンのバイクとして開発していましたが、モトクロス用に使っていた自分の名前のステッカーがあったので、それをダウンチューブに張り付けました。そのため、B2にはイーストンとFELTの両方の文字が入っていて、”FELTって何だ”となり、FELTが有名になったのです」

2.FELTの歴史

ジム・フェルトは1994年にイーストンを離れると、同年に自らのオリジナルブランド「FELT」を創立。それから2000年まではAnswer Products(アンサー・プロダクツ)と提携して製品開発を続け、その7年後の2001年、ドイツのニーダーザクセン州エーデヴェヒトにて「FELT社」を設立します。その目的は、ハイエンドモデルに限らないラインナップを揃え、世界的なマーケットでビジネスを展開することでした。

このFELT社設立には、アメリカ人ビル・デューリングとドイツ人のミヒャエル・ムルマンが関係しています。

ビル・デューリングは、ワシントンD.C.で3代続く自転車店経営者の家庭で生まれ、学校卒業後は大手自転車問屋に就職。そこでBMXを中心とした自転車の流通・販売ノウハウを得ます。

一方、ミヒャエル・ムルマンは、大学で経営学と経済学を学びながら、学費を捻出するためにスポーツ用品の輸入販売を営みます。そして、やがて自ら自転車店を開業し、後にBMXやマウンテンバイクの製造を手がけるようになりました。

そんなビル・デューリングとミヒャエル・ムルマンは、BMXの販売を通じて知り合います。そして、その二人が、この「FELT」立ち上げに尽力。資金面と人材面で協力します。

設立当初のコンセプトは「To design, develop, and deliver the best bicycles in the world.」。
その想いは今なお消えておらず、この言葉からも分かる通り、実直に、より良い製品づくりを目指すジム・フェルトは、現在でもトライアスロンワールドカップの現場に自ら趣き、最前線で選手のセッティングを行っています。

ジム・フェルトはドイツで会社を設立した後、今度はアメリカのカリフォルニア州アーバインに拠点を新設します。そして、それからはヨーロッパとアメリカの二極体制で事業を展開し、現在ではロードバイク、トライアスロンバイク、シクロクロス、BMX、マウンテンバイク、トラックレーサー、軽快車などラインアップを拡大。27か国に140モデルを供給する中堅メーカーへと成長しました。

しかし、Felt Bicyclesは2017年2月3日、Rossignol Group(ロシニョール・グループ)に買収されます。ロシニョールは、ウィンタースポーツを主軸に置く総合スポーツブランドです。そして、現在はFELTブランドはロシニュール傘下で展開されています。

3.日本における販売

https://www.riteway-jp.com/

日本でのFELTブランドは、ライトウェイプロダクツジャパン株式会社が総輸入代理商社として取り扱っています。

ライトウェイプロダクツジャパンは1996年2月、アメリカのGT BICYCLEの100%出資日本法人として設立され、2002年4月にGT BICYCLEより独立。名実ともに日本の会社となり今に至る企業です。

現在、ライトウェイプロダクツジャパンでは、完成車は「GT」に加えて独自開発の「RITEWAY」と、この「FELT」ブランドを取り扱っています。

4.トライアスロンに挑むFELTアスリート

FELTブランドには最高のトライアスロンバイク「IA」があります。
IAは「Integrated Aero」の略で、ただ速いだけではなく、少しの違和感も与えずに乗り手にシームレスに融合する(Integrated)バイクを目標にしているトライアルバイクです。

開発には、UCI(国際自転車競技連合:【仏】Union Cycliste Internationale)のルールの枠を取り払って開発されました。

特徴としては、横風と走行スピードも考慮して設計された楕円断面形状「エアロフォイルシェイプ」、水平に近いシートステーが空気の乱れを軽減してエアロダイナミクスを向上させる「クロークシートステー」、電動コンポーネント用バッテリーをシートチューブ裏から内蔵「バットパック」、そして、エアロベースバーはステムとトップチューブにシームレスにつながる形状「エアロバーインテグレーション」などが挙げられます。

そして、この章では、そんな「IA」に乗ってトライアスロンで好成績を収めている代表選手を数名紹介します。

4-1.Daniela Ryf(ダニエラ・リフ)

今、女子トライアスロンで最強と呼ばれているDaniela Ryf(ダニエラ・リフ)は、スイスで生まれ育ち、2007年にプロへ転向。2014年に70.3世界選手権を勝利後の活躍は目覚ましく、2015,2016,2017,2018年とコナ世界選手権4連覇を成し遂げました。

特に2018年の大会はドラマティックでした。

ダニエラ・リフがレース開始前にカイルア湾でウォームアップしていると、スタートの約2分前のことです。彼女は2箇所もクラゲに刺されます。そして、そんなこともあって、リフはスイムではトップの選手に大差をつけらてしまいます。

しかし、リフは海から上がると、真新しい最新のFELT「IA Disc」に跨がりました。そして、有名なクイーンKハイウェイのバイクパートでトップに躍り出て、4時間26分7秒という、今までの記録を18分も更新したコナのバイクレコードを打ち立てます。ちなみに、このIA Discこそ、ディスクブレーキバイクでコナを勝った最初の一台です。

FELTはこの勝利により、FELT製バイクにおけるコナ6連覇(他の5つの勝利はIAリムブレーキバージョン)を達成します。

4-2.飯田忠司

飯田忠司は1976年のクリスマス、12月24日生まれのトライアスリートです。出身は東京、愛称は「イイダーマン」「いいちゃん」。東海大学付属相模高等学校卒、東海大学文学部文明学科卒。

小学生から高校卒業まで剣道を学び、大学進学後にトライアスロンのキャリアをスタート。2000年ロングディスタンス日本選手権5位を皮切りに、2005年アイアンマンコナでは6位入賞。2011年の佐渡国際トライアスロンAタイプでは「FELT IA」に乗って優勝するなど、日本を代表する選手として数々の輝かしい業績を残しています。

現在はトライアスロンスクール「i-Storm」を自ら主催して後進や一般アスリートの指導にあたりつつ、はロングディスタンスのトライアスロンを中心とした選手活動も行なっています。

5.トラック競技をサポートするFELT「TA FRD」

Feltはアメリカ自転車連盟トラックチームのサポーターで、アメリカ代表チームには「TA FRD」などを供給しています。

TA FRDは、アメリカ代表の女子チームパシュートがリオ五輪で金メダルを獲得するために開発された専用バイクです。ただし、一般にも流通しており、£26000(日本円で約400万円)で販売されています。

五輪でのメダル獲得のために開発されたとあって、TA FRDは非常に特殊な構造を備えています。

ベロドロームは左回りが基本ですが、このTA FRDはドライブトレインが通常のバイクとは反対側に取り付けられています。なぜなら、ドライブトレイン側から風が当たった方がハイスピードで走れるためです。

また、左側にドライブトレインを移動することにより、自転車の重心がコーナーの内側に移動するため安定性も高まるというメリットがあります。

6.日本人へのサポート

FELTはトライアスロン選手の飯田忠司を筆頭に、数名の活動をサポートしています。
この章ではその中でも代表的な若手の2名「中村龍太郎」「梶原悠美」をご紹介します。

6-1.中村龍太郎

中村龍太郎は1990年のクリスマス、12月24日生まれ。自転車競技との出会いは、高校生の時に地元で開催された「Mt. 富士ヒルクライム」。それ以降は自転車の魅力に取り憑かれ、信州大学在学中は自転車競技部に所属。卒業後は千葉県の会社にてフルタイムで働きつつ、長野県に本拠があるロードレースのプロチーム「イナーメ信濃山形」の一員として活躍。Jプロツアーを主戦場とし、トラック・シクロクロスなどを含めて年間約70戦をこなします。

2015年全日本選手権男子タイムトライアルでは、FELT「DA」に跨り優勝。

他にも、2015年のMt.富士ヒルクライム優勝、2016年全日本選手権オムニアム3位など、実力は誰もが認めるほど抜群である一方、人気も兼ね揃えているそうで、彼のブログはFELTの日本における総輸入代理商社「ライトウェイ」のWebページ内でもぶっちぎりのアクセス数を誇るそうです。

6-2.梶原悠美

梶原悠未は1997年4月10日生まれ。出身は埼玉県。筑波大学附属坂戸高等学校に入学後、教師の誘いで水泳から転身し、自転車競技を開始。すぐさま、日本のレースシーンに存在感を示します。

2014年全日本選手権女子ジュニアでの優勝を皮切りに、2015年ジャパンカップオープン女子優勝、世界選手権ジュニア女子ロードレース4位、2016年全日本選手権個人タイムトライアル2位、2017年UCIトラックワールドカップ第3戦女子オムニアム優勝金メダル(全4種目1位の完全優勝)など、トップ選手として数々の記録を着実に残しています。

ロードレースだけでなく、トラック競技でも日本有数の実力者として期待されている逸材です。

7.弱虫ペダルとFELT

7-1.弱虫ペダル

「弱虫ペダル」は、自転車競技を題材にした本格的なスポーツ漫画です。作者が自転車に乗る際、軽いギアで回転数をあげてクルクル回す乗り方を、独自に「弱虫ペダル」と名付けていたことが由来となってタイトルになりました。

2008年から週刊少年チャンピオンにて連載開始。単行本はすでに50巻を超え、累計発行部数は1700万部を超えています。

主人公は、千葉県立総北高等学校の新入生・小野田坂道。秋葉原をこよなく愛しする、アニメ・ゲーム・漫画のオタク少年です。中学時代にオタクの友達ができなかったため、高校進学後は友達を作るためアニメ・漫画研究部への入部を希望。しかし、部員数減少のため部は活動休止中で、小野田は活動再開に必要な部員数を集めべく奮闘します。

そんな折、小野田は同級生の今泉俊輔から自転車レースを挑まれます。今泉は中学時代に自転車競技で活躍していたスーパースターでした。しかし、なぜそんな彼が小野田のようなオタクに勝負を挑んだのか。それは、小野田が学校裏の斜度20%以上の激坂を、ママチャリで、しかも歌いながら登坂していたからでした。

結局、小野田は今泉に敗れ、総北高校の自転車部へ入部します。そして、先輩部員でクライマーの巻島裕介の指導を受け、才能を開花させた小野田は様々なレースで活躍する存在へと成長。漫画「弱虫ペダル」は、そんな小野田の成長を描く、笑いあり、涙ありの本格青春スポーツ漫画です。

作者は渡辺航(わたなべ わたる)。生まれは1971年3月9日、出身は長崎県。

7-2.弱虫ペダルサイクリングチーム

弱虫ペダルの作者である渡辺航は、自転車競技を盛り上げたいという気持ちから、2016年2月14日、自身が描く漫画「弱虫ペダル」の名を冠したロードレースチームを結成します。

結成した年から成績は好調で、ロードレースでは、2016年、2017年JCBFエリートツアーのチーム優勝、また唐見美世子が2016,2017のJフェミニンツアー個人総合優勝を獲得。2018年はいよいよ国内トップカテゴリーのJプロツアーに参戦します。

弱虫ペダルサイクリングチームはシクロクロスでも日本トップクラスの活躍を見せており、2017年は織田聖がU23全日本王者、前田公平が全日本3位入賞を遂げました。

2017年よりFELTが年間サポートを行っており、オールラウンドレーサーのFR1をメインに、スピードマンにはエアロロードのAR1、またタイムトライアルレースではDA1を使用しています。

8.まとめ

「多くの自転車業界の人と違って、私はモーターサイクル業界で経験を積んできました」
そう語るのは、FELTの創業者ジム・フェルトです。

本人の言う通り、ジム・フェルトの経歴は自転車業界の大多数と異なります。ジム・フェルトはもともとは自転車ではなく、モトクロスの選手でした。そして、彼は自分で図面を引き、削り出したパーツを自ら組み込んでレースに出場し、いくつもの勝利を重ねた優秀なエンジニアでもありました。

やがて、その噂はKawasakiの耳にも入り、製品開発のテストライダー兼エンジニアとしての誘われます。そして、それ以降22年間は、ジム・フェルトはKawasakiを始め、Suzuki、Yamaha、Hondaなど日本メーカーのモトクロスバイクのエンジニアとして、合計8回の世界チャンピオンを経験します。

一方で、モトクロスのエンジニアは仕事が非常にハードだったため、ジム・フェルトは体を鍛えるためにトライアスロンを始めます。しかし、モトクロス業界から見ると、ロードレースのフレームは非常に時代遅れでした。そこで彼は自転車のフレームを自ら作り始めるのですが、それが「FELT」の始まりです。

最初に製作したフレームでシクロクロスとトライアスロンの世界チャンピオンを生み出すと、その後はスポーツ総合メーカーのイーストンでチューブの開発を担当。「エリート」や「スーパーライト」などのチューブを開発します。

1994年、ジム・フェルトはイーストンを離れ、同年に自らのオリジナルブランド「FELT」を創立。そして2001年には、ドイツで「FELT社」を設立し、ハイエンドモデルに限定せず、世界的なマーケットでビジネスを展開し始めます。

また、その後はアメリカにも拠点を設け、FELTはロードやトライアスロン、MTBでも歴史的な成果を上げたため、世界中のライダーが注目するバイクブランドへと成長。日本でもFELTからサポートを受けている弱虫ペダルサイクリングチームが活躍するなど、FELTは実力と人気を兼ね揃えた自転車メーカーとして日本でも人気です。

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