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【第1回 1903年開催】小さな煙突掃除人〜ツール・ド・フランス物語〜

【第1回 1903年開催】小さな煙突掃除人〜ツール・ド・フランス物語〜

1903年に開催された、第一回ツール・ド・フランス。当時はどんな自転車で、どんな物語が人々を熱狂させたのでしょう。そして、初代優勝者は。

1903年の第一回ツール・ド・フランスを振り返ってみます。

───────────目次───────────

1.当時の自転車

ツール・ド・フランス第一回大会が開かれた1903年当時の競技規則では、変速機は禁止されていましたが、使用する自転車はどんなタイプでも問題なかったようです。ただ、すでにドロップハンドルのタイプは存在していたものの、使用者はほぼおらず、主流は一昔前に「セミドロップ」と呼称していたタイプのものでした。

ハンドルステムの突き出しも非常に短く、ほぼ全ての選手はハンドルの前に小さなバックを装着していました。もちろん、バックの中身は工具です。

また、当時の道路は舗装されておらず、路面状態は良好とは言えませんでした。そのため、ホールベースは異常なほど長く、フロントフォークのオフセットも非常に大きいのが特徴でした。

当時の競技用自転車の価格は、250フランから450フラン程度だったそうです(ちなみに、当時のロト紙の年間購読料が20フラン)。

一方、重量は軽いもので11.5キロ、平均して13キロ程度。現在では、UCIルールでは6.8キロを下回る自転車は禁止されていますから、今と昔ではおよそ5キロほどの差があっと言っても過言ではないでしょう。要するに、昔の人は今のロードバイクに米袋を一つを担いで走行していたわけです。

2.ツール最初の落車

1903年7月1日午後3時過ぎ、パリ郊外のヴィルヌーヴ=サン・ジョルジュにあるカフェ「レヴェイユ・マタン」前から、いよいよツール・ド・フランス第一回大会が始まりました。「レヴェイユ・マタン」はフランス語で「目覚まし時計」の意味ですから、新しい自転車レースの目覚めの場所としては最高の場所でした。

参加者は60名。最初のステージはパリ〜リヨンの467キロ。そして、スタートして3キロの地点で、ツール・ド・フランス史上最初の落車が起こります。優勝候補の一人「イッポリット・オクテュリエ」でした。彼は胃の不調もあったことから、その時点でリタイアしてしまいます。

しかし、当時のルールでは、リタイアしたステージ以降も参加が認められていました。そのおかげもあって、オクテュリエは第2ステージと3ステージで区間優勝を果たしています。

さらに、当時のツール・ド・フランスでは、任意のステージ1つだけを選んで参戦することも認められていました。ですから、正確には第一回ツール・ド・フランスの参加者は、60名ではなく83名ということになります。

3.小さな煙突掃除人

第一回ツール・ド・フランスの優勝者は、ロト紙が優勝候補筆頭に挙げていたモーリス・ガランでした。ガランはイタリア・ヴァッレ・ダオスタ州のアルヴィエ生まれ、誕生日は1871年。1897年と1898年のパリ〜ルーベ第二回と第三回を連覇した後、1901年に戸籍をフランスへ移行。1902年にボルドー〜パリを制覇し、1903年のツール・ド・フランス第一回を優勝しました。

この時のツール・ド・フランス第一回は、全長2428km、「パリ〜ナント〜ボルドー〜トゥールーズ〜マルセイユ〜リヨン〜パリ」という6区間の行程で行われました。モーリスが制したのは、そのうちの第1ステージ、第5ステージ、最終ステージ。そして、全行程の走行時間は94時間33分14秒。平均時速は26.45キロ。そんなスピードで走破したモーリスは、総合2位のリュシアン・ポティエに2時間49分21秒の差をつけ圧倒的な力を見せつけました。また、最下位の選手との時間差は64時間以上にもなりました。

ガランはもとの職業から「ル・ブチ・ラモネール(小さな煙突掃除人)」と呼ばれていて、優勝当時の身長は163センチ、体重61キロ、32歳。彼は第一回大会で見せた圧倒的な力を持って、第二回大会でも誰よりも早くにフィニッシュするのですが……この続きは第二回大会のお話で。

4.個性派揃いの参加者たち

ツール・ド・フランス初代優勝者のモーリス・ガランは、荷物の中に常に赤ワインのボトルを入れていて、さらに喫煙者だったと言われています。それも、立て続けに吸うチェーンスモーカーだったようです。

しかし、少し風変わりだったのはガランだけではありません。たとえば、ジャン・ダルガッシー。彼はツール・ド・フランス開催二ヶ月前に初めて自転車を購入したにも関わらず、総合11位の成績を収めています。なぜ突然参加しようと思ったかは謎ですが、今からでは到底考えられない暴挙です。

また、アンドレ・デヴァージュは「サイクルツーリスト」と自称し、レースの参加理由について「フランスの各地の風景を楽しみたかったから参加した」と語っています。それでも、総合20位で完走しているから脱帽です(完走できたのは参加者の三分の一ほど)。

ただ、当時のレースにおいては、個人的にスポンサーがつく選手は多くありませんでした。第一回ツール・ド・フランスでは、出場選手の半分以下の21名にしかスポンサーはつきませんでした。また、チームとしてのスポンサーなどは存在せず、したがって現在のように戦術を用いることなど全くありませんでした。だからこそ、このように奔放に振る舞える選手がいたのかもしれませんが……いずれにしても、ツール・ド・フランスの選手は今も昔も猛者ぞろいです。

ちなみに、総合成績は以下の通りです。

優勝:モリス・ガラン(フランス)
2位:ルシアン・ポティエ(フランス)
3位:フェルディナン・オジェロー(フランス)
4位:ロドルフェ・ムッレール(イタリア)
5位:ジャン・フィスケ(フランス)
6位:マルセル・ケルフ(ベルギー)
7位:ジュリアン・ローテンス(ベルギー)
8位ジョルジュ・パスキエ(フランス)
9位:フランソワ・ボジェンドル(フランス)
10位:アロイ・カトー(ベルギー)

5.奮闘したツール発案者

ツール・ド・フランスの創設者は、一般的には「アンリ・デグランジュ」と言われています。しかし、発案者は彼の部下「ジェオ・ルフェーヴル」という話は前回お話しした通りです。そして、そんなルフェーヴルは、第一回のレース運営も担当していました。

大会開催中の1903年7月1日から7月19日の間のルフェーベルは多忙を極めたそうです。レポーターとしてパリのデスクにいるデグランジュに電話や電報でレース経過を伝達する一方、レース責任者として誰よりも早くスタート地点に来て、誰よりも早くにゴール地点に向かってゴール審判を担いました。

当時のフェーヴルは文字通りフランスを駆け回ったそうです。選手がスタートしたら最寄りの駅まで自転車を飛ばし、急行列車に飛び乗りゴール地点付近へ。そして、午後になって選手たちがゴールしてくると、今度は選手や関係者の宿泊準備に取り掛かります。最後は夜、その日のレースについてレポートをまとめ、また再び選手たちのスタートを見届けると……という奮闘ぶりでした。

しかし、そこまで尽力したにも関わらず、フランスのマスコミはあまりツール・ド・フランスに関心を示しませんでした。各社とも慎重な態度のままでした。また、悲しいことにロト紙の売上にもあまり貢献しませんでした。

6.まとめ

1903年7月1日から7月19日の間に行われた第一回ツール・ド・フランス。最初は集客に失敗するも何とか参加者は60人突破。大々的に開始することができました。

スタートは午後三時過ぎ。スタート地点は「目覚まし時計」という意味のカフェ「レヴェイユ・マタン」の前でした。

全6ステージ、全行程2428km。
最初のドラマはスタート3キロ地点でした。優勝候補の一人イッポリット・オクテュリエが落車します。このトラブルにより彼はリタイア。が、当時のルールではリタイアしても次のステージは参戦可能でした。そのため、第二ステージ、第三ステージとイッポリット・オクテュリエが制覇します。

しかし、最終的に総合優勝を果たしたのは、ロト紙が予想した優勝候補筆頭の「モーリス・ガラン」。彼は身長163センチ、体重61キロで、もとの職業が煙突掃除人だったことから「小さな小さな煙突掃除人」と呼ばれたイタリア人です(後にフランス国籍取得)。

ガランが制覇したのは、第1ステージ、第5ステージ、最終ステージです。そして、平均時速26.45キロで駆け抜けた彼は、全行程を94時間33分14秒で走破。2位のリュシアン・ポティエに2時間49分21秒の差をつけ圧倒的な力を見せつけました。

そして、ガランはその勢いのまま第二回大会に出場し、二大会連続で一番最初にゴールするのですが……この続きは次のお話。ぜひご期待ください。ではまた、元気にお目にかかります。


次話【第2回 1904年開催】19歳のチャンピオン
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