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ジャイアントのブランドストーリー(前編)〜自転車工場としての成長〜

ジャイアントのブランドストーリー(前編)〜自転車工場としての成長〜

世界最大規模の自転車企業「GIANT Manufacturing(ジャイアント・マニュファクチャリング)」、通称「ジャイアント」
」は、日本でも非常に人気のサイクリング・ブランドです。

そんな人気メーカーはどのようにして誕生したのか。
また、どのように今の地位にまでたどり着いたのか。

今回はジャイアントのブランドストーリーを、台湾の文化、そして創設者の人生と絡めてご紹介します。

───────────目次───────────

1.【はじめに】台湾独特の文化

ジャイアントは台湾の企業です。そして、その台湾の企業「ジャイアント」についてより深く知りたいなら、絶対に理解しておくべきことがあります。それは台湾の文化です。台湾には、私たち日本人とは大きく異なる文化があります。特に「名前」と「生き方」には大きな違いが存在します。

そこで、ジャイアントの歴史についてより深く理解するためにも、まずはその二点についてご紹介いたします。

1-1.日本とは違う「二つある台湾の名前」

台湾人には名前が二つあります。
一つは、中国語の名前。もう一つは「イングリッシュネーム」、いわゆる英語の名前です。

なぜ英語名があるのかというと、「中国名は読み方が難しく、外国人には覚えてもらえないから」とのことです。そして、その英語名はほとんどニックネームのようになっていて、台湾では広く使用されているそうです。名刺にも記載があります。しかし、公的なものではありません。ですから、英語名の決め方は人それぞれです。英語の授業が始まる時に先生につけられたものをそのまま使う人もいれば、自分で好き勝手に決める人もいるそうです。

1-2.日本人とは違う「台湾人の生き方」

日本はサラリーマン社会として成熟しており、起業するにあたっては経験と人脈、資金などを前もって揃え、不退転の決意をもって会社を起こす風潮にあります。

しかし、台湾では違います。
台湾人は人生の選択肢として起業がプログラムの一つとして組み込まれているのか、とにかく経営者志向が強い傾向にあります。そして、少しの資金とわずかなビジネスチャンスがあればすぐに会社を設立します。とある統計結果によれば、4人に1人が経営者とのことです。

中国から裸一貫で海を渡ってきた移民の子孫、ということも関係がありそうです。肩書きも資金もないところから一代で会社を育て上げる「白手起家」が、台湾ではライフスタイルの一部になっているのです。

白手起家とは、全く何も無い状態から事業を起こし、一代で繁栄させることです。「白手」は手に何も持っていないこと。「起家」は家を栄えさせることを意味します。日本では「はくしゅきか」、台湾では「ピンイン」と読みます。

いずれにせよ、台湾人は中国名と英語名の二つの名前を持ち、経営者思考が高い人種と言われています。
そして、やはりジャイアントの創設者もまた、例に埋もれずまさにそのような人物でした。

2.GIANT(ジャイアント)創立

2-1.創業者「劉金標」

ジャイアントの創業者は劉金標です。読み方は「りゅうきんひょう」または「リウ・ジンビャオ」。そして、イングリッシュネームは「King Liu(キング・リュー)」です。会社名が「GIANT(ジャイアント)」、自分の名前は「キング」ですから、彼がいかに志が高かったかが推察できます。

そんなキング・リューは、台湾中部・台中の沙鹿という小さな町で、日本統治時代の1934年7月2日に生まれました。もともと劉家は福建省の漳州市(しょうしゅう)の出身で、台湾に渡ってからは劉家はキング・リューで4代目でした。

彼が生まれた当時、父は貿易関係の仕事をしていました。そのため、実家は比較的裕福だったそうです。1940年代には高級品だった自転車が何台も自宅にあったそうで、彼はそんな家の長男として生まれました。

キング・リューは勉強はあまり好きではなく、省立台中第二中学(現在の台中市立台中第二高級中等学校)初等科を経て、台中高級工業学校の機械科を卒業すると、南部の大都市・高雄の服飾工場などで働きます。そして、その頃に映画館の窓口で切符を販売していた王柳霞に恋をすると、キング・リューは映画館に通って仲良くなり、当時にしては珍しい恋愛結婚という形で夫婦になります。

2-2.GIANT(ジャイアント)設立に至るまで

前項でお話ししたように、台湾は経営志向がとても強い国です。そして、キング・リューも独立志向が非常に強く、彼は20代後半で王柳霞と出会った高尾での生活を切り上げると、故郷へ帰郷。沙鹿に戻ると自分の会社を設立します。

最初は化学製品の販売、次はネジの製造。それ以外にも、運送業や日本からの飼料の輸入など、いろいろなビジネスに手を出しますがどれも成功と呼べるほどには至りませんでした。その中には失敗したものもありますし、順調にいっていても本人がおもしろみを感じず途中で廃業したものもあります。ただ、いずれにせよそのすべては、2~3年で廃業となりました。

しかし、1960年代後半から手がけた台湾の活鰻(たいわんのかつまん)は違いました。台湾の活鰻とは、台湾におけるウナギの養殖事業です。キング・リューはこの事業に限っては、文字通り「成功」を収めます。

彼はまず、台湾海峡に面した台中の海岸線に巨大なウナギの養殖池をいくつも造りました。そして、そこでウナギを養殖し、輸出。主な輸出先は日本だったのですが、当時の日本は経済成長も著しく、日本の商社は高値でウナギを買い取りました。(今でも台湾のウナギは日本市場が主な輸出先で、毎年5万トン・5億ドル程度輸出しています)。キング・リューもその時流にうまく乗り、ビジネスを成功させたのです。

しかし、1969年のことです。キング・リューに災難が降りかかります。台風による大雨で海岸の堤防が決壊。そして、ウナギの養殖場に海水が流れ込み、すべてが泥水に流されてしまいます。損失額は現在の価値で数億円。ですが、冒頭で紹介した通り、それでも諦めないのが台湾人の気質です。キング・リューも密かに再起を図り、次のビジネスを模索しながら時が来るのを静かに待ちます。

2-3.GIANT(ジャイアント)設立

ウナギの養殖ジビネスのノウハウがあったキング・リューは、自然災害により事業が行き詰った後も他人の資金で養殖場の運営に携わります。しかし、1972年のことです。とうとう転機が訪れます。親族たちと集まって食事をしている時のことでした。これからの時代にはどんなビジネスが成功するだろうか、という話題が持ち上がると、その場で誰かが「自転車はどうだろう」と発言します。1970年代前半は、台湾では空前の自転車ブームが訪れていました。といっても、自転車に乗る、というブームではありません。自転車を作る、というブームです。その頃のアメリカでは「自転車に乗るブーム」が巻き起こっていて、だから製造コストの安い台湾に大量の製造発注が舞い込んでいたためです。

その話が持ち上がると、キング・リューはその場で決断します。そして、親戚や知人など10名から資金を調達し、同じ1972年、台中に1700坪ほどの自転車工場を設立。従業員38人で自転車製造を始めます。

それが、今世界一とも言われている自転車ブランド「GIANT(ジャイアント)」です。

2-4.社名「ジャイアント」の由来

1970年代前半、台湾では少年野球がとても高い人気を集めていて、当時は台南にある「巨人」という少年野球チームが世界大会で優勝したりするほど活躍していました。そこでキング・リューはそのチームにあやかり、新会社の名前を「GIANT」とします。会社を世界の自転車業界の「ジャイアント(巨人)」に育ているという意気込みをこめてのことでした。

しかし、会社登記を「巨人工業」で行おうとしても、すでに同名の会社が登記されていました。そのため(台湾人は画数をとても大切にするのですが、キング・リューも字画を考慮し)、「巨大機械工業」という名称で会社設立登記を完了させます。1972年10月のことです。

2-5.創業当時のジャイアントの戦略

台湾の自転車産業は、戦前の日本統治時代にはまだ存在していませんでした。それが生まれたのは、国民党の統治が始まった戦後の1945年以降です。そして、台湾ではその頃にいくつもの自転車の完成車メーカーが設立され、低品質・低価格の自転車を作る地下工場が多数生まれました。しかし、1960年代に入ってオートバイ産業が盛り上がりをみせると次第に淘汰され、早い時期に誕生した自転車完成車メーカーはほとんどが製造中止に追い込まれます。

そんな中、1971年にアメリカで「バイコロジー」が提唱されます。バイコロジーとは「bike(バイク=自転車)」と「ecology(エコロジー)」を合成した造語です。排出ガスを発生させない自転車を利用することで、大気汚染などの公害を防止しようという市民運動でした。日本でも翌1972年、日本自転車普及協会など自転車関連団体を中心とした公益団体により「バイコロジーをすすめる会」は設立されています。そして、オイルショックが起こった1973年にピークを迎え、その後は若干下火になりますが、それでもこの運動は今なお展開されています。

こうした時代背景もあって、1970年代始めには製造コストの安かった台湾に自転車が大量に発注され、台湾には自転車メーカーが次々と誕生します。ジャイアントもこの時に設立されています。そのため、ジャイアントは創業当時は、やはり「OEM」専門の輸出企業でした。

当時のことをキング・リューはこう振り返っています。
「朝8時に出社し、午前中だけ会社にいれば午後はウナギ養殖のビジネスに時間が使える。そう思っていた」

しかし、実際はまったくそうなりませんでした。

ジャイアントが設立された台中という地域は、台湾において中小規模の工業集積地域でした。そのため、自転車にとって必要な機械加工や熱処理、および組み立てなどについての経験やノウハウはこの地域に集中しており、ジャイアントの自転車製造はすぐに軌道に乗るとキング・リューは予想したのですが、残念なことに創業5年ほどは、ジャイアントにはほとんどお客さんがいませんでした。

2-6.粗製乱造

自転車はアッセンブリー(組み立て)を主体とし、部品の互換性が非常に重視される製品です。また、自転車は国際マーケットが比較的早くから発達していて、各国は部品を輸入しながら完成車を輸出し、反対に部品を輸出しながら完成車を輸入していました。そのため、パーツへの信頼性がなければほぼそのメーカーの自転車は世界中で受け入れられませんでした。

しかし、ジャイアントも含め多くのメイド・イン・台湾の自転車は、まさに粗製乱造でした。そもそも、国家的な統一規格は一切なく、寸法もバラバラでした。

これでは全く国際市場で戦えない。

そう思ったキング・リューはツテを頼って日本へ渡ります。そして、JIS(日本工業規格)の本を購入し、帰国後、台湾のパーツメーカーに規格統一をお願いします。

が、当時のジャイアントはまだ小さな会社に過ぎず、OEMも大口の注文すら受けていない状態でした。したがって誰もキング・リューの話には耳を貸そうともしなかったのですが、それでも彼は諦めませんでした。何度も取引先の部品メーカーに伺って規格統一を試みます。

その甲斐もあって、何とか統一規格の自転車部品の供給体制に目処が立ちます。しかし、ジャイアントは創業2年目にして、すでに経営は崖っぷちでした。さあどうする。キング・リューが「羅 祥安」と出会ったのは、まさにそんな時でした。

3.ジャイアント急成長期のきっかけ

3-1.羅祥安

ジャイアントの創設者・キング・リューの生涯のビジネスパートナーと呼ばれているのが、羅祥安(ら しょうあん、ルォ・シャンアン)、イングリッシュネーム「トニー・ロー」です。

トニー・ローは1949年の元日、一月一日生まれです。幼少期に両親と台湾に渡り、国立新竹高級中学、国立台湾大学商学系(商業学部)卒業後、堪能な英語力を生かして事実上の国営企業・中華貿易開発公司へ入社。台湾最大の貿易会社にて、海外貿易業務に従事します。

中華貿易は当然、アメリカでの自転車ブームに目をつけました。そこで、トニー・ローに台湾企業の生産力について市場調査を命じるのですが、トニー・ローはそのリサーチの結果、一つの厳しい結論を導きます。

「台湾製の自転車は品質が悪く、製品の規格も統一されていない。そのため、今のブームに乗れば一時的な売上の向上は認められるだろうが、将来性はほとんどない」

トニー・ローは企業分析能力に長けていると評判でした。そのため、中華貿易はトニー・ローのレポートをもとに自転車の取引には参入しないことを決定します。

しかし、そのレポートの噂を聞きつけて、一人の男がトニー・ローを訪ねてきます。ジャイアントの創設者・キング・リューです。前述の通り、キング・リューは規格統一が台湾における自転車産業では非常に重要であるというスタンスで、当時の自転車業界について批判的でした。そのため、二人はたちまち意気投合し、これからの台湾の自転車産業について熱く語り合います。そして、トニー・ローはやがて、キング・リューの技術と品質に徹底的こだわる考え方に共感し、ジャイアントへの入社を決断。中華貿易をすっぱりと辞めてしまいます。

トニー・ローはキング・リューより15歳も年下でした。しかし1973年、ここに自転車業界の伝説的な2トップ体勢が構築され、二人は二人三脚でジャイアントを社名通り世界的巨大企業へと成長させるのです。

3-2.トニー・ローの賭け

トニー・ローは入社すると、アメリカや日本の商社経由で受注をいくつか獲得します。それでも、その受注量は多くはなく、このままではいずれ壁にぶつかるとの結論に達します。そこで、トニー・ローはキング・リューと共に海外の大手自転車メーカーから直接大口の注文を取ることを決意します。

二人はアメリカと日本を駆け回ります。しかし、当時のジャイアントはまだ無名で、実績もありませんでした。日本のサイクルショーに出かけ、商談のために話しかけた日本メーカーの相手から、軽蔑した眼差しで握手すら断られることもあったそうです。

それでも諦めなかった二人ですが、すぐに深刻な資金難に陥ります。キング・リューはジャイアント解散を従業員に示唆したこともあったそうです。

しかし、1977年に事態は急展開を迎えます。アメリカの大手老舗メーカー「シュウィン」との提携の可能性が浮上したのでした。

4.ジャイアントの急成長期

4-1.シュウィンのOEM獲得まで

シュウィンはアメリカ自転車産業の名門的老舗です。イグナズ・シュウインとアドルフ・アーノルドが1895年10月22日、シカゴに「Arnold,Schwinn & Company」を設立したことが始まりです。現在もドレル・インダストリーの傘下で人気のブランドとして存続していますが、当時のシュウィンは世界最大級の自転車メーカーでした。

そんな自転車メーカーの門を、キング・リューとトニー・ローは何度も叩いたそうです。そして、そんなアプローチを繰り返し、ようやくシュウィンの副社長との面談の機会を獲得します。

その面談では、トニー・ローはジャイアントの品質向上のための努力を数時間かけて熱弁したそうです。結果、ジャイアントへの発注までは獲得できなかったものの、シュウィンの副社長の台湾メーカーに対するステレオタイプを弱めることには成功し、一定の成果を生み出します。そして、その数年後のことです。その副社長が日本のサイクルショーに出席すると知ったトニー・ローは、そのついでに台湾訪問を打診。台中にあるジャイアントの工場へ招待し、生産現場を見学させます。すると、副社長はジャイアントの品質に驚き、1977年、とうとうジャイアントへのOEMを決意します。

4-2.シュウィンとの提携

シュウィンは一時、アメリカでの生産の一部を日本へ外注していました。しかし、やがて日本での生産もコストが上昇してくると、良品を低コストで作れる企業を探し始めます。

しかし、シュウィンは最初はジャイアントをそこまで信用していませんでした。ジャイアントが任されたのは「シュウィン」ブランドではなく、第二ブランドでした。それでも、ジャイアントは何とかシュウィンからの信用を獲得しようと尽力し続けます。

そうして数年が経過し、シュウィンがジャイアントを少しずつ信用し始めた時でした。1979年に、シュウィンのシカゴ工場で大規模なストライキが勃発。シュウィンは生産拠点を完全に台湾へ移転することを決意し、アメリカにあった4工場の全てを閉鎖します。

4-3.シュウィンとの蜜月期

シュウィンは全アメリカ工場を閉鎖すると、ジャイアントへのOEMで生産をまかなうようになります。その結果、ジャイアントは当時の世界の中心にあったアメリカ市場への参入に成功し、生産量は急増。1979年には年間生産量は35万台に到達し、創業からおよそ10年目にしてようやく軌道に乗り始めます。

ジャイアントの工場には、シュウィンからの技術者が常駐するようになりました。そのため、技術移転が順調に進行し、1980年になるとジャイアントの生産高は台湾トップに躍り出ます。そればかりか、アジアにおいても日本のブリヂストンサイクルに次ぐ規模にまで成長します。

1980年代は、まさにジャイアントとシュウィンの関係は蜜月でした。両者は毎年、台湾とアメリカの中間に位置するハワイで会議を開くようになり、相互依存度も高まり、1983年にはジャイアントの生産量に占めるシュウィンの注文の割合は75%までに達します。と同時に、シュウィンブランドで売られる自転車のおよそ7割はジャイアントの生産でした。

5.まとめ

今ではオリジナル自転車ブランドとして確立している「ジャイアント」ですが、創業当初はOEM専門の輸出会社でした。しかも、その設立の経緯は、創業者であるキング・リューがウナギの養殖ビジネスに失敗したことが発端だったから驚きます。また、多くの自転車メーカーやロードバイク・ブランドは、その創設者の多くがサイクリストであることを考えると、本当に異色の自転車ブランドだと言えます。

それでも、キング・リューは物作りに対しては非常に真剣でした。そして、トニー・ローという優秀なパートナーを迎え入れたことで、ジャイアントは軌道に乗るのに10年の月日を要するものの、自転車のOEM会社として台湾のトップに躍り出ると同時に、アジアではブリヂストンに次ぐ規模にまで成長します。一時はアメリカの老舗自転車メーカー「シュウィン」の生産の7割以上を担っているほどでした。

しかし、その時ですら「ジャイアント」という名前は世間に知られていませんでした。OEM専門の会社だったからです。

では、ジャイアントはその後、いかにしてOEMから脱し、オリジナルブランドとしての地位を確立したのでしょう。続きは「ジャイアントのブランドストーリー(中編)」でご紹介します。ご期待ください。

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