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【第6回 1908年開催】初の二連覇リュシアン・プティ=ブルトン〜ツール・ド・フランス物語〜

1908年に開催された第6回ツール・ド・フランスは、ディフェンディングチャンピオンのリュシアン・プティ=ブルトンが勝利し、史上初のツール・ド・フランス連覇を達成します。

また、表彰台には初めてフランス人以外が上がり、女性も参加しようとしたのが1908年のツール・ド・フランスでした。

コースは前回大会とほぼ同じでしたが、様々な「初」が生まれた第6回大会を早速振り返ってみたいと思います。


目次
1.1908年 ツール・ド・フランス第6回開催
 1-1.前回大会との変更点
 1-2.レース概要
 1-3.賞金
2.史上初の連覇リュシアン・プティ=ブルトン
 2-1.本名「リュシアン・ジョルジュ・マザン」
 2-2.プロとしてのキャリア
 2-3.圧勝の1908年ツール・ド・フランス第6回
 2-4.悲劇の死
3.総合順位
4.女性の参加を申し出たマリー・マーヴィング
5.まとめ


1.1908年 ツール・ド・フランス第6回開催

1-1.前回大会との変更点

1908年に開催されたツール・ド・フランス第6回は、前回大会とほぼ同じルートが組まれ(距離は同じ4,488km)、開催期間も28日間と全く同じでした。しかし、この第6回では前回大会とは大きな変更点がありました。

それは、ツール・ド・フランスにおいて初めて取り外しが可能なタイヤの使用が認められたことです。これにより、パンクに見舞われたサイクリストは以前よりも時間をかけずにレースに戻ることができるようになりました(ただし、相変わらず自分でタイヤをはがし、自分でスペアを張り替えなければなりませんでしたが)。


1-2.レース概要

1908年のツール・ド・フランス第6回大会では、スタートリストには前回のおよそ1.5倍の162人の登録がありました。しかし、そのうち48人が参加しなかったので、最初のステージは114人のサイクリストで開始されました。

優勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。彼は前回大会に続いて勝利を収めたため、ツール・ド・フランス史上最初の連覇を果たした男となりました。

なお各ステージの概要は以下の通りです。

第1ステージ(7月13日)
パリ〜ルーベ(272km)の平野ステージ。勝者はジョルジュ・パスリュー。

第2ステージ(7月15日)
ルーベ〜メス(398km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。

第3ステージ(7月17日)
メス〜ベルフォール(259km)の山岳ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。

第4ステージ(7月19日)
ベルフォール〜リヨン (309km)の山岳ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。

第5ステージ(7月21日)
リヨン〜グルノーブル(311km)の山岳ステージ。勝者はジョルジュ・パスリュー。

第6ステージ(7月23日)
グルノーブル〜ニース(345km)の山岳ステージ。勝者はジャン=バプティスト・ドルティニャック。

第7ステージ(7月25日)
ニース〜ニーム(354km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。

第8ステージ(7月27日)
ニーム〜トゥールーズ(303km)の平野ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。

第9ステージ(7月29日)
トゥールーズ〜バイヨンヌ(299km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。

第10ステージ(7月31日)
バイヨンヌ〜ボルドー(269km)の平野ステージ。勝者はジョルジュ・ポールマイヤー 。

第11ステージ(8月2日)
ボルドー〜ナント(391km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。

第12ステージ(8月4日)
ナント〜ブレスト(321km)の平野ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。

第13ステージ(8月6日)
ブレスト〜カーン(415km)の平野ステージ。勝者はジョルジュ・パスリュー。

第14ステージ(8月9日)
カーン〜パリ(251km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。


1-3.賞金

1908年のツール・ド・フランスの賞金総額は25,000フラン。そのうち、最終ステージを除く13のステージで、それぞれの勝者に400〜500フランが手渡されました。

また、それとは別に、総合順位で1位は5,000フランを受け取り、2位のサイクリストでも100フランが獲得できました。そして、すべてのライダーは一日あたり少なくとも5フランを受け取っており、この大会の優勝リュシアン・プティ=ブルトンは総額8,050フラン、2位のフランソワ・ファベールは4,595フランを受け取っています。


2.史上初の連覇リュシアン・プティ=ブルトン

2-1.本名「リュシアン・ジョルジュ・マザン」

リュシアン・プティ=ブルトンは1882年、ロワール・アンフェリウール県(現在のロワール=アトランティック県)・プレセ出身のフランス人サイクリストです。6歳の時、一家はアルゼンチンに移住し、リュシアン・プティ=ブルトンはアルゼンチン国籍を取得しています。本名はリュシアン・ジョルジュ・マザン(Lucien Georges Mazan)。

リュシアン・プティ=ブルトンが、本名を隠して自転車レースに参加していたのには理由があります。

リュシアン・プティ=ブルトンが自転車競技生活を開始したのは、16歳の時に宝くじで自転車を手にしたことがきっかけでした。しかし、リュシアン・プティ=ブルトンの父は眼鏡屋を営んでおり、自転車選手はやくざな商売だと考えていました。そこで、彼は父親を騙すために偽名を使い始めます。リュシアン・プティ=ブルトンという名を選んだのは、リュシアン・ブルトン(Lucien Breton)というサイクリストが既にいて、カムフラージュできると考えたからでした。


2-2.プロとしてのキャリア

リュシアン・プティ=ブルトンはトラック競技でアルゼンチンのチャンピオンになると、20歳の時に母国フランスに戻ります。そして、2年後の1905年にアワーレコードで当時の世界記録41.110kmを樹立すると、翌年にはパリ〜トゥール、さらに1907年の春には第1回のミラノ〜サン・レモ(「プレマヴェーラ」の愛称で知られるクラシックレース)で優勝し、そして3度目のツール・ド・フランスに挑戦、エミール・ジョルジェのペナルティのおかげで総合優勝を果たします。


2-3.圧勝の1908年ツール・ド・フランス第6回

パリの中心・コンコルド広場がスタート地点となった第6回大会は、リュシアン・プティ=ブルトンとジョルジュ・パスリューの戦いでした。パリ〜ルーベの第1ステージはジョルジュ・パスリューが取り、ルーベ〜メスの第2ステージはリュシアン・プティ=ブルトンが勝利。そして、山岳を含むメス〜ベルフォールの第3ステージでリュシアン・プティ=ブルトンが2着でおさまると、総合成績ではトップに立ち、結果的にはそのままトップの座を明け渡すことなくパリにゴールします。

しかしながら、この年最強のクライマーはジョルジュ・パスリューでした。すでにバロン・ダルザスもトップ通過していたジョルジュ・パスリューは、距離17.7km、最大勾配10%の1326mの頂上まで、自転車から降車せずに登りきった唯一の選手でした。そして、第5ステージではジョルジュ・パスリューの独壇場でしたが、実は彼は第3ステージで堆肥の山につっこみ落車しており、トップから1時間以上遅れたことで総合では約40ポイントのさをつけられていました。そのため、総合では結果的にリュシアン・プティ=ブルトンの圧勝で幕を閉じ、史上初の連覇を果たした男として「リュシアン・プティ=ブルトン」がツールの歴史に名を残します。


2-4.悲劇の死

リュシアン・プティ=ブルトンは、ツール・ド・フランス2連覇を達成した1908年には、パリ〜ブリュッセルも制覇しています。パリ〜ブリュッセルは1893年に創設されたロードレースのワンデイレースです。2013年以降は「ブリュッセル・サイクリング・クラシック」と名称が変更されており、現在はUCIヨーロッパツアー(1.HC)のレースとして位置づけられています。いわゆる「セミ・クラシックレース」と呼ばれるレースの一つです。

しかし、このツール・ド・フランス以降、リュシアン・プティ=ブルトンはサイクリストとしてレースには参加しませんでした。初の連覇を果たした男として自分の人生について書いた本「Comment je cours sur route」が成功し、新聞用のサイクリングコラムを描き始めていたからです。ですから、サイクリストとしてツール・ド・フランスには参加しませんでしたが、コラムニストとしてはレースに引き続き参加していました。

しかし、第一次世界大戦勃発により、リュシアン・プティ=ブルトンは軍隊の召集を受けます。そして1917年、車を運転中にトロワ近郊で対向車と衝突し、交通事故で命を落としました。享年35歳でした。

ちなみに、リュシアン・プティ=ブルトンの息子イヴは、1947年にチームコーチとしてツール・ド・フランスに参加しています。


3.総合順位

第6回のトップ10位は以下の通りです。2位にルクセンブルク人のフランソワ・ファベールが入賞し、6回目にして初めて、表彰台にフランス人以外が上りました。

1位 リュシアン・プティ=ブルトン(フランス)
2位 フランソワ・ファベール(ルクセンブルク)
3位 ジョルジュ・パスリュー(フランス)
4位 ギュスタヴ・ガリグー(フランス)
5位 ルイジ・ガンナ(イタリア)
6位 ジョルジュ・ポルミエ(フランス)
7位 ジョルジュ・フルリ(フランス)
8位 アンリ・コルネ(フランス)
9位 マルセル・ゴディヴィエ(フランス)
10位 ジョヴァンニ・ロッシニョーリ(イタリア)


4.女性の参加を申し出たマリー・マーヴィング

マリー・マーヴィングは1875年、フランスのカンタル県のオーリヤックで生まれた運動選手・登山家・飛行士・看護師・ジャーナリストです。第一次世界大戦中には最初の女性戦闘パイロットとなった一方で、資格を有する外科看護師でした。そのため、世界初の訓練を受けて認定された飛行看護師として、世界中で救急車サービスの確立に取り組んでいました。

そんなマリー・マーヴィングは、4歳までには4kmを泳ぐことができました。また、15歳の時にはナンシーからドイツのコブレンツまで、400km以上の距離を走りきることができ、1899年までには運転免許証も取得しています。

その後も、水泳、フェンシング、ライフル、射撃、スキー、スピードスケート、リュージュ、ボブスレーで数々の賞を受賞。さらに1903年と1910には、女性として初めてフランスとスイスのアルプスの峰の多くに登っています。

そして、マリー・マーヴィングは1908年ツール・ド・フランス第6回に参加を申し込みます。しかし、レースへの参加は男性に限定されていたため運営組織から拒否されます。そこで、マリー・マーヴィングは参加者から少し距離を置いてコースを循環するのですが、114人中36人しか走破しきれなかったコースを見事走り切ります。


5.まとめ

第6回大会の特筆事項は、何と言っても史上初のツール・ド・フランス二連覇した男が誕生したことでしょう。リュシアン・プティ=ブルトン、本名リュシアン・ジョルジュ・マザン。彼はまだまだ現役としてやっていけたでしょうが、ツール・ド・フランス二連覇を初めてなし得た男として本を書くとそれが大成功。それによりサイクリストは引退し、ライターやコラムニストとしての人生を歩み始めます。

一方、この大会では初めて女性が参加を申し出た大会でもありました。彼女の名は「マリー・マーヴィング」。結果的には参加は拒否されたものの、彼女は114人中36人しか走破しきれなかったコースを見事走り切ります。


次話【第7回 1909年開催】勝者は、悪天候に強い大食漢