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【プロローグ】スポーツ新聞「ロト・ヴェロ」〜ツール・ド・フランス100物語〜

ツール・ド・フランスの始まりは、スポーツ新聞の読者獲得合戦。
多くの方がそう認識していますが、実は歴史を紐解くと、ツール・ド・フランスの誕生秘話はフランスの政治・歴史にまで及びます。

今回の0話(プロローグ)では、世界最大の自転車イベント「ツール・ド・フランス」がどのように生まれたのか、その詳細をご紹介いたします。

───────────目次───────────

1.ロト紙、誕生

1-1.ドレフュス事件

ドレフュス事件は1894年にフランスで起きた冤罪事件です。フランス第三共和政を揺がした政治危機であり、共和国の存続そのものを危険にさらした事件として、日本の教科書にも掲載されています。

事件の発端は、ユダヤ人のフランス陸軍参謀本部勤務の大尉アルフレド・ドレフュスが、ドイツに情報を売ったとして軍法会議にかけられ終身刑を言い渡されたことにありました。しかし、間もなく真犯人が別にいることを軍内部でもつきとめるのですが、軍の威信と反ユダヤ感情のため、その判決は撤回されず時は流れます。

その裁判の非合法性に作家のエミール・ゾラは憤り、1898年にオーロール紙上にて「私は弾劾する」で始る大統領あての公開質問書を発表。これにより世論は高まり、ドレフュス擁護派の「ドレフュス派」と、頑固なカトリックや反ユダヤ人主義者などを中心とする「反ドレフュス派」が形成され、国論を二分する抗争に至りました。

1-2.【ドレフュス派】ル・ヴェロ紙の編集長ピエール・ジファール

当時のル・ヴェロ紙は、1891年にアマチュアレースとして始まっていた自転車レース「ボルドー〜パリ」をプロレースとして主催し、「街道のダービー」との触れ込みで購読者数を倍増させていました。そして、そのル・ヴェロ紙の編集長がピエール・ジファールで、彼はドレフュス派でした。

1-3.【反ドレフュス派】資産家のディオン伯爵

ディオン伯爵は19世紀のフランスにおける最大級の資本家の一人です。自転車製造会社も所有しており、宣伝広告活動にはル・ヴェロ紙を主に活用していました。

そんなディオン伯爵は反ドレフュス派で、1899年、反ドレフュスのデモで逮捕されます。そして、その逮捕をきっかけに、ドレフュス派だったル・ヴェロ紙の編集長ピエール・ジファールとは完全決別。ディオン伯爵は仲間を募り、ジファールが編集長を務めるル・ヴェロ紙に対抗するスポーツ紙を作ることにします。

そうして誕生したのがロト紙です。

2.ツール・ド・フランス誕生

2-1.ロト紙の編集長アンリ・デグランジュ

ディオン伯爵が、ル・ヴェロ紙に対抗すべく創刊したロト紙。その初代編集長に指名されたのがアンリ・デグランジュでした。デグランジュは1893年に、世界初のアワーレコード35.325キロ打ち立てたアマチュア自転車選手でした。

2-2.名称変更の屈辱

1900年10月16日、いよいよロト紙が発刊されます。しかし、ロト紙は最初は「ロト・ヴェロ」紙という名称でした。それが、ジファールが編集長を務める「ル・ヴェロ」紙から、「ヴェロ」の名前は紛らわしいと訴訟を起こされ、泣く泣く「ロト」紙へと名称変更を果たします。

この訴訟に憤慨したのが、初代ロト紙の編集長デグランジュでした。彼は何としてでも、ル・ヴェロ紙が主催する自転車レース「ボルドー〜パリ」より派手で目立つことを企画しようと執念を燃やします。

2-3.ツール・ド・フランス本当の発案者

ロト紙の編集長デグランジュには部下がいました。ジェオ・ルフェーヴルです。彼は1902年11月、上司で編集長のデグランジュに「フランス一周のステージレース」を提案します。しかし、デグランジュは自分が自転車選手だったことから、その提案がいかに困難であるかを瞬時に悟り、まずはその提案を却下します。が、ルフェーヴルは諦めませんでした。時がちょうどランチ休憩だったこともあり、ルフェーヴルは上司のデグランジュにレストランまで付いてき説得を続けます。

「一日に一定の距離のレースを行い、翌朝また新たに次のレースをスタートします。ボルドー〜パリは一日で終了するレースですが、数日かけてフランスを一周すれば、その記事で何日も紙面を賑わせられます」

こうした説得により、デグランジュはフランス一周の自転車レース開催を決意します。したがって、一般的にはツール・ド・フランスの創始者として名前が上がるのはロト紙編集長のアンリ・デグランジュですが、本当の発案者は彼の部下ジェオ・ルフェーヴルなのです。

2-4.ロト紙とル・ヴェロ紙

ロト紙が創刊当初は「ロト・ヴェロ」紙だったことは先述の通りで、結果的にはライバルの「ル・ヴェロ」紙からヴェロを取外すよう裁判が起こされ、「ロト・ヴェロ」から「ロト」に名前が変わります。しかし、名称こそ同じ「ヴェロ」が採用されていましたが、紙面の色はまったく違いました。

ル・ヴェロは紙面が緑でした。
一方、ロト・ヴェロは紙面が黄色でした。

もちろん、「マイヨ・ジョーヌ (maillot jaune)」が黄色の理由はここにあります。ロト紙の紙面が黄色だったから、黄色のジャージが採用されました。

3.ツール・ド・フランス開催までの道のり

3-1.世界初のフランス一周

自転車でフランスを一周するというアイデアは、ツール・ド・フランスが最初ではありません。1895年にテオフィル・ジョワイユとジャン・コールが、別々のコースでおよそ20日ほどかけて走破しています。

その時二人が走破した総距離は、二人とも約5,000キロでほぼ同じだったと言われています。ただ、1903年1月、ロト紙に掲載された第一回ツール・ド・フランスの参加者募集広告では「2428キロ」となっていました。

3-2.集客に失敗しかけた第一回レース

最初の広告が打たれてから5ヶ月が経過した頃の参加人数は、わずか27人でした。考えられる最大の理由は、「お金」でした。確かに、賞金総額は2万フラン、優勝賞金は3,000フラン、総合50位以内の選手には毎日5フランと、賞金についてはかなり破格でした。しかし、一方で参加費は10フランでした(当時のロト紙の年間購読料が20フラン)。また、当時のレースは宿泊費などの諸経費は選手負担でした。

そこで1903年6月5日、編集長のアンリ・デグランジュは新たな広告を打ち出します。

「レース期間中の選手は生活費がかかりません。ホテルは選手に宿泊してもらえることが名誉であり、宣伝にもなるということから特別料金で宿泊できるよう申し出てくれている。しかし、何より10フランの参加費でとても稼げるかもしれないのだ!」

この広告により申込者は急増。そして第一回のツール・ド・フランスは計60名の選手によってスタートされました。

4.主催者が予想した3人の優勝候補

1903年7月1日、ロト紙は「ツール・ド・フランス 出発」という大見出しでコース図を発表。さらに3人の優勝候補の絵を一面に載せました。

4-1.モーリス・ガラン

ロト紙が予想した優勝候補の筆頭は、モーリス・ガランでした。

ガランは1897年、1898年とパリ〜ルーベを連覇。1901年にはパリ〜ブレスト〜パリ優勝、1902年にはボルドー〜パリでも優勝していた選手です。小柄ながらも人並みはずれた持久力がある選手として評判でした。

4-2.イッポリット・オクテュリエ

モーリス・ガランのライバルとして紹介されたのが、フランスラ・セル出身のイッポリット・オクテュリエです。1901年のパリ〜ブレスト〜パリでは3位でしたが、同年のパリ〜ルーベでは優勝しています。

パリ〜ルーベは毎年のように落車して骨折者が出たり、土や泥が口や擦り傷に入って感染症にかかる選手が発生したりと、その厳しさから「北の地獄」との異名が冠せられているレースです。そして、そんなレースに翌年も優勝したのが、このイッポリット・オクテュリエでした。

彼は「恐怖のオクテュリエ」とのあだ名をもつほどの巨漢でした。そして、その通り名の通り眼光は鋭く、堂々と立派な体つきで、横シマのシャツに黒いタイツ姿をトレードマークとしていました。

ゴールスプリントを得意とし、ゴール前では圧倒的な強さを誇る選手でした。

4-3.ヨーゼフ・フィッシャー

三人目の優勝候補は、ドイツ人のヨーゼフ・フィッシャーです。フィッシャーは1865年生まれのドイツ人で、1896年から1905年までロードレースのプロ選手として活動しました。

プロ転向の1896年には、第1回パリ〜ルーベの初代優勝者となり、1900年にはボルドー〜パリを制覇、同年にはパリ〜ルーベで2位入賞を果たしました。

が、ツール・ド・フランスでは結果的に総合15位に終わってしまいます。

5.まとめ

日本の教科書にも紹介されているドレフュス事件が発端となり、ル・ヴェロ紙に対抗して誕生したロト紙。さらにロト紙は、ル・ヴェロ紙が主催していた自転車レース「ボルドー〜パリ」より目立つ自転車レースを開催するべく、フランス一周の自転車レース「ツール・ド・フランス」を企画します。

こうして誕生したツール・ド・フランスは、今や世界一の自転車レースとして成長。世界30億人が熱狂する一大イベントになりましたが、初開催時には参加者が少なく、主催者は集客にとても苦労しました。

それでも何とか60名が参加する運びとなり、レースは無事開催されることとなります。

当時のロト紙は、紙面にて優勝候補を3人あげています。小柄ながらも人並みはずれた持久力がある選手として評判だった「モーリス・ガラン」、ゴールスプリントを得意とした巨漢「イッポリット・オクテュリエ」、パリ〜ルーベの初代優勝者「ヨーゼフ・フィッシャー」です。

さて、栄誉ある第一回の優勝は誰の頭上に輝いたのか。
次回はツール・ド・フランス100物語の第1話をお届けします。