ジャイアントのブランドストーリー(中編) 〜自転車ブランドとしての確立〜
ウナギの養殖ビジネスを失敗したキング・リューはアメリカで自転車ブームが起きていることを知り、自転車のOEMメーカーの立ち上げを決意します。しかし、台湾のパーツは規格が統一されていないことから国際的評価は非常に低く、すぐに資金難に陥ります。
が、そんな折に出会ったのが、キング・リューより15歳も年下のトニー・ローでした。彼は台湾最大の貿易企業・中華貿易に勤めていたのですが、キング・リューの熱心な勧誘に転職を決意。キング・リューの設立した「ジャイアント」へ入社します。
トニー・ローは入社するやいなや、アメリカや日本の商社からOEM契約をいくつか獲得してきますが、それでもこのままではジリ貧だと判断し、海外の自転車メーカーから直接OEM受注するような方針転換を図ります。その結果、長い年月はかかりますが、当時の世界最大級の自転車メーカー「シュウィン」から直接OEMを受注。一気に台湾ナンバーワン製造企業におどり出ると、アジアにおいても日本のブリヂストンに次ぐ第二位の規模まで成長します。
しかし、そこまでの企業に成長しても、当時のジャイアントはOEM企業だったため、世界の誰もが「ジャイアント」という名前すらを知りませんでした。
では、ジャイアントはどのようにして今のような知名度を獲得したのでしょう。
今回は軌道に乗ったジャイアントがブランドとして設立した歴史を紹介します。
1.ジャイアントとシュウィンの亀裂
1-1.高すぎた相互依存
アメリカの老舗自転車ブランド「シュウィン」は、1979年にシカゴでのストライキが発生すると、アメリカにあった4つの生産工場全てを閉鎖。生産の多くを台湾のジャイアントに任せることとなります。その結果、同年にはジャイアントの年間生産量は35万台を突破。1983年にはジャイアントの生産量に占めるシュウィンの注文の割合は7割を超えます。
こうした良好な関係性は数年続き、ジャイアントとシュウィンは互いの本社がある台湾とアメリカの中間に位置するハワイにて、毎年会議を開くほどにまでなります。
しかし、ここまで相互依存が高まると、両者の動向はそれぞれに大きな意味を持つようになります。受注サイドが発注側の希望通り生産ができなかったり、あるいは発注側が受注サイドへの注文を減らしたりすれば、たちまちお互いが影響を受けて一気に経営不振に陥ることがあるからです。
また、1970年代後半〜80年代前半は、ジャイアントがシュウィンのOEM契約を獲得したばかりとあって、シュウィンが圧倒的に優位にありました。しかし、それ以降は相互依存が高まるほどにジャイアントの発言力は増していき、シュウィンの主体性や自主性が保てなくリスクも見え隠れするようになりました。
そこで、シュウィンはジャイアントに株式の持ち合いを提案しますが、ジャイアントはそれを拒否。他社を買収しない代わりに自社株も他社に渡さないというポリシーのもと、シュウィンの提案を断ります。一方、ジャイアントはシュウィンに対して共同で新ブランドの設立を持ちかけますが、シュウィンはそれを拒否してしまいます。
こうしたお互いの戦略のすれ違いにより、ジャイアントとシュウィンの関係は徐々に水面下で亀裂が入り始めます。
1-2.中華自転車の登場
毎年ハワイで会議を行い、何でも話し合える関係性にあったジャイアントとシュウィンでしたが、1987年、ジャイアント本社に激震が走ります。シュウィンが中国の深センにある自転車メーカー「中華自転車」とOEM契約を結ぶべく、技術供与し、その準備を進めている、との噂が耳に入ったからです。
自転車の製造には機械化できない工程があります。例えばスポークにリムをつける作業では、どうしても人の手が必要になります。そのため、製造コストを抑えるには、人件費が安い地域に産業拠点を移すことは必須でした。実際に1970年代以降、台湾の自転車メーカーの勃興が始まったのは日本の人件費高騰という背景がきっかけでした。また、ジャイアントがシュウィンとのOEM提携を可能にしたのも、低コストでの製造が可能だったからです。シュウィンがジャイアントを選んだのは経済的合理性からであって、シュウィンにとってジャイアントは、あくまでもOEMの引受先の一つでした。決して唯一の選択肢ではなかったわけです。
しかし、ジャイアントはシュウィンのOEMのために工場を増設して対応してきました。事前通告もなく一方的に注文が減れば、それはジャイアントにとっては死活問題どころか一気に経営危機を迎えることは目に見えていました。
この時のことを、トニー・ローは次のように回顧しています。
「シュウィンも一気に全ての注文を中国へは発注できるはずがない。少なくとも、ジャイアントから完全に発注を移行するには5年は必要だ。我々をそう読んで、自社ブランドにより活路を見出す戦略に打って出たのです」
いずれにせよ、シュウィンに完全に頼り切っていたジャイアントは、創業以来最大の危機を迎えることになりました。
1-3.シュウィンのその後
ところで、ジャイアントとの相互依存度を低めるべく動き出したシュゥインですが、中華自転車との提携により中国進出を果たすものの、中華自転車では想定していたほどのクオリティが確保できないという課題にぶつかります。そればかりか、中華自転車はシュウィンからの技術移転がある程度進んだ時点で他社ブランドを買収。自らオリジナル自転車の製造を勝手に始めてしまいます。その結果、シュウィンはアメリカでの市場も次第に失うこととなり、最終的には1992年に経営不振により倒産。その後は他業種の企業も含め幾度かの買収を経て、現在はドレル インダストリーの傘下でブランド名だけが残っている状況です。
一方、ジャイアントはシュウィンとの10年以上の取引により、蓄積した技術とノウハウを生かしてシュウィンとは全く違う道を歩み始めます。ODM、さらにはOBMを視野に入れた脱OEMです。
2.脱OEM
2-1.オリジナルブランド「ジャイアント」の設立
OEMとは、Original Equipment Manufacturerの略です。他社ブランド製品の製造、あるいはその製造企業を意味します。生産を受託する会社は、委託側が提供する図面や詳細スペックに従って自社の生産設備を使って生産します。製品は委託会社のブランドで販売されます。
ODMとは、Original Designing Manufacturerの略です。委託企業の図面に依存せず、受託側が自らデザインして生産します。販売はOEM同様、委託企業が担当します。
OBMとは、Original Brand Manufacturerの略です。企画・デザイン・生産・販売まで、一貫して自社で行います。
中国や台湾で最も目立つビジネスモデルは、OEMから始めて技術やノウハウを蓄積し、やがてODMへと成長してOBM化を目指すものです。もちろんジャイアントもそのような戦略でした。ですから、たとえシュウィンの中華自転車への心変わりがなくても、やがてはOEMからODM、さらにはOBMへの移行を迎えていたはずです。確かに、シュウィンとの摩擦がジャイアントの意識を刺激し、OBMメーカーへの急激なステップアップを促しましたが、遅かれ早かれ、ジャイアントは自社ブランド設立に舵を切ったはずです。
というのも、実はシュウィンが中華自転車と提携を目論む6年前の1981年には、すでにオリジナルブランド「GIANT」を設置していたからです。
2-2.ジャイアントの脱OEMの手法
1981年にオリジナルブランドを立ち上げたジャイアントでしたが、他社ブランド買収による脱OEMは選択肢になかったと、キング・リューは断言しています。彼はそれを肉まん業界に例えて解説しています。
「美味しい肉まんを売っていたとしよう。人気があれば、その店は他のメニューを開発して売る必要はない。肉まんだけで知名度の高いブランドを作れる。台湾の〈鼎泰豐(ディンタイフォン)〉がまさにそうだ。彼らは小籠包だけで世界チェーンを作り上げた。鼎泰豐と言えば小籠包、小籠包と言えば鼎泰豐。そういうブランドを育てることが最善の道なのだ」
したがって、ジャイアントは他社ブランドの買収は一貫して行わないのですが、ジャイアントにはもう一つ、脱OEMのために徹底して守り抜いた企業理念があります。それは販売方法です。
ジャイアントは現地の会社は100%自己資本で設立し、合弁会社や現地企業の買収は一切おこなっていません。そして、量販店には一切製品を卸さず、すべて自社の販売店か自転車専門店にて販売しました。この専門店ルートでのみの販売は今もジャイアントの原則であり、販売の基本方針です。こうした販売方法に限っている理由を、キング・リューは以下のように説明したことがあります。
「量販店ではどうしても販売優先となってしまい、アフターケアやアフターサービスが手薄になってしまう。しかし、自転車は乗ったら必ず修理が必要になるため、自転車産業にはアフターサービスが不可欠です。だから、ジャイアントは専門店以外では購入できないようになっているし、ジャイアントの自転車にはアフターサービスが必ず付属しているのです。これはジャイアントの大前提であり、一度も崩したことがありません」
ジャイアントはこうして、他社ブランドを買収することなく一から自分たちで「ジャイアント」ブランドを育てることを決め、専門店のみでの販売を徹底することで脱OEMを図ったのでした。
2-3.海外への展開
自社ブランド「ジャイアント」を設立した5年後の1986年、ジャイアントはヨーロッパにおける現地法人(歐洲總部、Giant Europe BV)をオランダに設立し、海外進出に着手します。すると、その翌年の1987年にはアメリカにも現地法人(美國總部、Giant Bicycle Inc., USA)を設立。続けて1988年には、ヨーロッパの組織をドイツ・イギリス・フランスの3つに分けてそれぞれ現地法人を立ち上げると、さらにその翌年の1989年には、当時アジア最大のマーケットだった日本にも販売会社(日本捷安特銷售公司、Giant Company Ltd., Japan)を設立し、1991年にはオーストラリアの現地法人(澳洲銷售公司、Giant Bicycles PTY Ltd., Australia)とカナダの現地法人(加拿大捷安特銷售公司、Giant Bicycle Co., Canada, Inc.)を立ち上げ、1992年には中国に現地法人(中國銷售公司、Giant Co. Ltd., China)を設立、中国への進出も果たします。
このように相当なスピード感を持って世界へ進出したジャイアントでしたが、すべてのエリアですぐに黒字化できた訳ではありませんでした。
まず、ヨーロッパ進出に際しては、欧州ならではの保守的な商習慣を考慮し、長くヨーロッパの自転車業界で活躍してきた人材を登用します。その報酬はとても高額だったそうで、ジャイアントの2トップであるキング・リューとトニー・ローの二人の給料を合わせても足らないほどだったようです。その理由について、トニー・ローはこう解説しています。
「あらゆるシーンで高い要求があるマーケット・ヨーロッパで勝負するには、財務や法務、マーケティングにおいては、一流の人材が不可欠だと思っていた。だから、本体から血を流してでもやっていく覚悟があった」
そして、こうした覚悟を持った上で、保守的な体質のヨーロッパ市場に対しては、アメリカで最も流行していたマウンテンバイクを初上陸させます。マウンテンバイクは新しい分野だったため、ジャイアントブランドでもあまり抵抗感なく受け入れられると予測したからです。そして、実際にその戦略は成功し、ヨローッパ進出は早い段階で一定の成果を獲得。ジャイアントはヨーロッパでの黒字化を2年ほどで実現します。
一方、アメリカでは苦戦続きでした。
ジャイアントは脱OEMを掲げてはいましたが、完全にOEM撤退は考えていませんでした。当時の目標はOEM依存度を50%まで下げることでした。ですから、当然OEMは当時も続けていて、アメリカの場合は当時のOEM委託元が主にマウンテンバイクを扱っていたこともあり、ジャイアントがマウンテンバイクでアメリカに乗り込むわけにはいきませんでした。
また、中級レベル以下の廉価な自転車販売も計画しましたが、その領域ではジャイアントの強みを十分に発揮することができず、2000年頃までは赤字状態が続きました。
ママチャリ文化が強かった日本においても、ジャイアントは長らく赤字でした。
しかし、こちらは1995年頃には黒字化へ転換できています。
3.ジャイアントブランドの確立
3-1.カーボンの採用
自転車のフレームにおいては、プラスチックなど様々な素材が試されましたが、長らくはスチール製が主流でした。丈夫で加工しやすく、低価格だったためです。しかし、1980年代に入ると状況は一変します。航空技術や宇宙開発の過程で、自転車にとって適用可能な新素材が続々と登場したからです。
アメリカの「TREK(トレック)」は1985年、航空宇宙産業と提携し、航空宇宙技術を自転車へ活用。アルミニウムバイクを開発します。
一方、1986年には、イタリアのロードバイクブランド「COLNAGO(コルナゴ)」はフェラーリとの提携。カーボンフレームの共同開発を始めます。
このように、1980年代の自転車業界が注目した素材は大きく2つに分類されます。その一つが、先のトレックが採用したアルミニウム合金やチタン合金などの金属系素材。もう一方が、コルナゴが採用したカーボンやグラス・ファイバーなどの非金属系素材です。
これらの素材は強度・耐性・経年変化などにおいて遥かにスチールよりも優れた能力を示しました。特に軽量化は顕著で、新素材で金属系素材を使った場合、平均して15%、非金属系では25%もの軽量化が実現可能とわかり、自転車業界はこぞって新素材に注目し、各社が新素材を使った自転車づくりを始めました。
そんな環境下において、ジャイアントが選んだ道はカーボン・ファイバーの導入でした。ブランド確立のためには、何か業界をあっと言わせることをやらないといけない。それがキング・リューとトニー・ローの共通認識でした。そこで、二人は当時、業界ではまだほとんど手をつけられていなかったカーボン・ファイバーへの導入に踏み切ったのでした。
3-2.ロードレース界の反応
カーボンファイバーは炭素繊維です。一本一本が非常に細くて軽く、しかし非常に強い特徴があります。ただ、加工には手間がかかるためコストはとても高くなります。そのため、カーボンファイバーは航空機などには採用されることはあっても、自転車にはコルナゴなど一部のヨーロッパのメーカーが使用しているだけで、量産化はどこもできていませんでした。
結局、ジャイアントはその量産化に成功するのですが、当初は試行錯誤の連続でした。工場内にカーボン研究用のラボを設け、ドイツやスイスに技術者を派遣して研究を続けました。そして、数年かかってようやく新商品の発売を迎えるのですが、出荷後、最初に製造した自転車はカーボン部分と合金部分の接合に問題があることが発覚し、全品回収しています。
それでもジャイアントはカーボンを用いた開発をあきらめることなく、徐々にヨーロッパにおいてカーボンへの信頼性を大きくし、やがてはユーザーの間に「カーボンならジャイアント」とのイメージ付けに成功します。
しかし、最も強い反応を示したのはロードレース界でした。
ロードレースではコストはある程度度外視し、軽くて強くて速い自転車を求めます。そのため、ジャイアントのカーボンの技術はレースの厳しい要求に答えられるものだとして、最先端のロードレースの現場から求められたのです。
こうして、ジャイアントはゆっくりとですが確実に、OEMではなくオリジナルブランド「ジャイアント」のイメージを確立させていきます。
4.まとめ
台湾で一般的なビジネスモデルは、OEMから初めてODM、OBMへと成長を果たすスタイルです。
OEMとは、他社ブランドの製造です。販売は委託元です。
ODMとは、他社ブランドの製造だけでなく、デザインなどにも踏み込んだスタイルですが、販売は委託元です。
OBMとは、企画・デザイン・生産・販売まで、一貫して自社で行うスタイルです。
そして、ジャイアントも上記のようなステップを踏んで脱OEMに成功していますが、そのきっかけは委託元であるシュウィンが、OEM発注先をジャイアントから中華自転車へ変更しようとしている情報をキャッチしたからでした。
このままシュウィンに頼りきっては倒産してしまう。
そんな危機感からジャイアントは脱OEM化を加速させたのでした。
そして、脱OEMには自転車業界を「あっ」と驚かせる必要があると感じていたキング・リューとトニー・ローは、当時まだほとんどの企業が手をつけていなかったカーボン素材に着目し、新しい自転車を作ることを決意します。
次回は、カーボン素材を自転車に採用したジャイアントがどのように人気ブランドへ成長したのか。ジャイアントのサクセスストーリーをお届けします。