【第4回 1906年開催】初代山岳王の悲劇〜ツール・ド・フランス物語〜
1906年に開催された第4回ツール・ド・フランスは、初の国境超えが実現したレースでした。もちろん、1905年開催の第3回ツール・ド・フランスで組み込まれた山岳ステージも継続され、初代山岳王と呼ばれるルネ・ポッティエもこの大会には参加しています。
結果から言うと、第4回大会の覇者は初代山岳王のルネ・ポッティエです。圧倒的な力でこの大会を制覇します。
その勇姿に、多くの人がルネ・ポテッィエを最も優秀なアスリートの一人として捉え、最強のプロ自転車行儀選手の一人と絶賛しました。翌年もツール・ド・フランスに参戦していれば、初の連覇も夢ではなかったはずです。
しかし、彼はこの大会を最後に、二度とツール・ド・フランスには参加しませんでした。
彼の身に悲劇が舞い降りたからです。
第4回ツール・ド・フランスはどんな大会になり、優勝者のルネ・ポッティエはどんな走りを見せたのでしょう。
そして、そのルネ・ポッティエに降りかかった悲劇とは。
では、早速1906年の第4回ツール・ド・フランスを振り返ってみましょう。
1.1906年 ツール・ド・フランス第4回開催
1-1.コース概要
1906年の第4回ツール・ド・フランスは、1906年7月4日から7月29日まで、全13ステージ、総距離4637km(最後にパルク・デ・プランスの競技場を2周する約1.3kmのレースが付け加えらました)で行われました。
前年から組み込まれた山岳コース「バロン・ダルザス」超えもある上(ルネ・ポッティエ以外は自転車から降りて山を越えたと言われている)、さらに日数は4日増え、総距離も1500kmほど延びた過酷なレースとなりました。
参加者は82名。
うち、完走できたのが、参加者のおよそ1/6相当の14名というのも頷けます。
1-2.本当のフランス1周レースに
前年の第3回大会は、パリを出発して
ナンシー→ブザンソン→グルノーブル→トゥーロン→ニーム→トゥールーズ→ボルドー→ラ・ロシェル→レンヌ→カーン→パリ
というコースでした。
しかし、第4回からは北はリール、東はディジョン、南はニースやスペイン国境近くのバイヨンヌ、西はブレストと新たな街をゴールに加わります。
パリを出発して
ドゥエー→ナンシー→ディジョン→グルノーブル→ニース→マルセイユ→トゥールーズ→バイヨンヌ→ボルドー→ナント→ブレスト→カーン→パリ
というコースになり、ここにツール・ド・フランスは本当の意味でフランス1周レースとなりました。
さらに、この年には当時ドイツ領だったロートリンゲン(ロレーヌ)地方も通過しています。
2.総合成績
2-1.ルイ・トゥルスリエとルネ・ポティエ
この時代のツール・ド・フランスでは、エースを勝たせるためのチームプレイというシステムはありませんでした。そのため、選手間の実力差は明確で、それがストレートに結果に反映しました。実際、前年チャンピオンのルイ・トゥルスリエはとても強く、この第5回大会でも4つの区間賞を獲得しています。
が、この年に最も多くのステージ優勝を遂げたのはルネ・ポッティエでした。ルイ・トゥルスリエの4勝を上回る区間5勝を挙げ(そのうちの第2ステージから第5ステージは4連勝を果たしています)、総合優勝を果たしました。
そして、この年も総合成績上位はほとんどがフランス勢が占め、唯一フランス人以外で10位以内に入賞したのはベルギー人のアロイ・カトー(6位)だけでした。
2-2.トップ10位
1位 ルネ・ポティエ(フランス)
2位 ジョルジュ・パスリュー(フランス)
3位 ルイ・トゥルスリエ(フランス)
4位 ルシアン・プティブルトン(フランス)
5位 エミール・ジョルジェ(フランス)
6位 アロイ・カトー(ベルギー)
7位 エドゥアール・ワトリエ(フランス)
8位 レオン・ジョルジェ(フランス)
9位 ウジェーヌ・クリストフ(フランス)
10位 アントニー・ワトリエ(フランス)
3.優勝者ルネ・ポティエ
第3回大会では、10キロほどで1178メートルを登る超急勾配のコースのバロン・ダルザスがルートに組み込まれ、ルネ・ポッティエ以外は自転車で登りきれず、降車して自転車を押して登ったと言われています。
そんな驚きの脚力を持つルネ・ポティエですが、第3回大会ではアキレス腱の炎症でリタイアしてしまうものの、第4回では圧倒的な力を見せて総合優勝を飾ります。
そんなルネ・ポッティエはどんな人物だったのでしょう。
3-1.ルネ・ポッティエの戦績
ルネ・ポッティエは、セーヌ・エ・マルヌのモレ・シュル・ロワン出身です。家柄はスエズ運河とパナマ運河建設への投資により、とても裕福だったそうです。誕生日は1879年6月5日。7人兄弟(3番目の男の子は出生後すぐに死亡)の4番目でした。
1903年、ルネ・ポッティエは第76歩兵連隊の小隊で3年間の任務に当たった後、パリに引っ越します。そして、その年のパリ-カーンのレースで優勝すると、フランスのアマチュア選手権でも優勝。1904年にはプロに転身し、その年の秋から1905年春にかけての冬の競輪場では無敗を誇りました。
また、1905年のパリ〜ルーベ、ボルドー〜パリではいずれも2位入賞、翌1906年には、24時間耐久トラックレースである「ボルドールレース」において925.290kmをマークして優勝。さらに、パリ〜ルーベでの3位を経てツール・ド・フランスに挑み、第2〜第5ステージと第13ステージを制し、31ポイントを挙げて総合優勝を果たしました。
3-2.ルネ・ポッティエの伝説
ルネ・ポッティエは初代山岳王と呼ばれるほど、山での強さは圧倒的でした。先述の通り、初年度の山岳コースにおいて自転車に乗ってバロン・ダルザスを超えたのは彼一人と言われています。
しかし、ルネ・ポッティエが山で強かったのは上りだけではありませんでした。下りも非常に速かったそうです。当時は舗装された山道などなかった時代ですが、驚くことにバロン・ダルザスの下りにおいて、ルネ・ポッティエはレースディレクターの車を追い越したとも言われています。
また、第5ステージ(グルノーブルからニーズまでの約345km)では、コース半ばですでに後続に1時間以上のリードを奪い、コース途中にあるカフェでワインを1杯注文してくつろいでいたそうです。そして、後続が通過した後、再び自転車に乗って彼らを追い越し、区間優勝を獲得したという伝説も残っています。
3-3.悲劇
ルネ・ポッティエはしばしば「天才」と称され、「歴史上最も優れたアスリートの一人」と評価されます。もし、ルネ・ポッティエが第5回大会ツール・ド・フランスに参加していたら、あるいは史上最初の総合優勝2勝目を挙げた人物になったかもしれません。本気でそう語る人は少なくありません。
しかし、プロ選手としての活動は、事実上、第4回ツール・ド・フランスを制したことで幕を閉じることになりました。この第4回ツール・ド・フランスから半年後の1907年1月25日、ルネ・ポティエは首吊り自殺をしてしまったからです。
自殺の理由は、1905年に結婚した妻の不貞だったと言われていますが、遺書はなく、はっきりとした原因は不明です。ただ、遺体の脇にはツール・ド・フランスの優勝メダルとリボンが丁寧に並べられており、彼がロープをかけたのは、通常自分の自転車を吊り下げておくフックだったと言われています。
3-4.記念碑
バロン・ダルサス(Ballon d’Alsace)は「アルザスの気球」とも訳され、海抜1,247メートルに達するフランス東部アルザス地方のヴォージュ山脈最高峰です。そして、ドイツ国境を有する地方であり、アルフォンス・ドーデの短編小説集「月曜物語」に収められた「最後の授業」の舞台ともなった土地です。小説「最後の授業」は、ドイツとの普仏戦争に敗れ、アルザス地方の学校では自分たちのフランス語が話せなくなった、という悲しい物語です。
そんなバロン・ダルサスの地に、ツール・ド・フランスの産みの親であるアンリ・デグランジュは、ルイ・ポティエの死後まもなく彼のために石碑を建立します。バロン・ダルサスが初めてツール・ド・フランスのコースに組み込まれた最初の年と翌年に、このバロン・ダルサスをトップで通過したのがルイ・ポティエだったからでした。
その碑には、要約すると次の文章が刻まれています。
1905年と1906年のツールドフランスでは、このバロン・ダルザスを平均時速20kmで登り、すべての選手を置き去りにして最初にこの地へ到着したものが「ルネ・ポティエ」である。
4.まとめ
初代山岳王として名を残した「ルネ・ポッティエ」。彼は上りだけではなく、下りの名手でもありました。舗装されていない山道の下りで、レースディレクターを追い抜くという伝説を成し遂げます。
そして、そんな彼はこの年の覇者に輝くのですが、もし翌年の第5回大会にも参加していれば、優勝して世界初のツール二連覇を達成したかもしれません。それほどの実力者でした。
が、彼は第4回ツール・ド・フランスの半年後、首をつって自殺してしまいます。
そんな彼を偲び、ツール生みの親とも言われるアンリ・アンリ・デグランジュは、初代山岳王「ルネ・ポッティエ」に敬意を表し、第4回・5回の山岳コースとなったバロン・ダルザスに石碑を建立します。
ルネ・ポッティエ。
彼こそ、長い歴史を誇るツール・ド・フランスにおける最初の山岳王だったことは誰も疑うことはありません。
次話【第5回 1907年開催】優勝を逃した悲劇の男エミール・ジョルジェ