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【第5回 1907年開催】優勝を逃した悲劇の男エミール・ジョルジェ〜ツール・ド・フランス物語〜

1907年に開催された第5回ツール・ド・フランスは、優勝者はリュシアン・プティ=ブルトンでした。彼は次年も優勝を果たし、ツール・ド・フランス史上初の二連覇を達成します。しかし、この年のツール・ド・フランスは、主役は優勝したリュシアン・プティ=ブルトンではありませんでした。優勝を逃した悲劇の男エミール・ジョルジェでした。

一方で、この年のツール・ド・フランスでは、初めてアシストを使ったレースを展開する男も現れ、レース本来の楽しみ方とは少し異なる面白さが味わえるレースとなりました。

では早速ツール・ド・フランス第5回大会を振り返ってみたいと思います。


目次
1.1907年 ツール・ド・フランス第5回開催
 1-1.前回大会との変更点
 1-2.レース概要
2.悲劇の男エミール・ジョルジェ
 2-1.ジョルジェ家
 2-2.大逆転で敗れたエミール・ジョルジェ
3.初めてアシストを使った男
4.まとめ

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1.1907年 ツール・ド・フランス第5回開催

1-1.前回大会との変更点

1907年に開催されたツール・ド・フランス第5回は、ディフェンディングチャンピオンのルネ・ポティエの悲劇的な自殺があった半年後の開催でした。

開催期間は7月8日から8月4日の28日間。
そして、この第5回では、前回大会と異なる点が3つ導入されました。

一つ目が、ステージ数。
1907年開催の第5回大会では、1906年開催の第4回より、1ステージ多い14ステージが用意されました。

二つ目は、前年は初めてドイツ領を通過しましたが、この第5回大会では、リヨンからグルノーブルまでのステージにおいて初めてスイスを訪れました。

そして三つ目は、1907年の第5回大会では、自転車の修理問題を解決するため、自転車の修理をする人が乗った車が参加者の後ろを運転した初めてのレースでした。


1-2.レース概要

1907年のツール・ド・フランス第5回大会では、スタートリストには110人の登録がありました。しかし、そのうち17人が当日になっても現れず、レースは93人のサイクリストで始まりました。

ステージ数は前年の第4回大会より1つ増えましたが、総距離は若干短くなり、4,488kmのコースでした。そして、その4,488kmを走り切ったのは、93人のうちの33人だけでした。

優勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。彼は平均速度28.47km/hでレースを終えました。

なお各ステージの概要は以下の通りです。

第1ステージ(7月8日)
パリ〜ルーベ(272km)の平野ステージ。勝者はルイ・トゥルセリエ。

第2ステージ(7月10日)
ルーベ〜メス(398km)の平野ステージ。勝者はエミール・ジョルジェとルイ・トゥルセリエ。

第3ステージ(7月12日)
メス〜ベルフォール(259km)の山岳ステージ。勝者はエミール・ジョルジェ。

第4ステージ(7月14日)
ベルフォール〜リヨン (309km)の山岳ステージ。勝者はマルセル・カドーレ。

第5ステージ(7月16日)
リヨン〜グルノーブル(311km)の山岳ステージ。勝者はエミール・ジョルジェ。

第6ステージ(7月18日)
グルノーブル〜ニース(345km)の山岳ステージ。勝者はジョルジュ・パスリュー。

第7ステージ(7月20日)
ニース〜ニーム(354km)の平野ステージ。勝者はエミール・ジョルジェ。

第8ステージ(7月22日)
ニーム〜トゥールーズ(303km)の平野ステージ。勝者はエミール・ジョルジェ。

第9ステージ(7月24日)
トゥールーズ〜バイヨンヌ(299km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。

第10ステージ(7月26日)
バイヨンヌ〜ボルドー(269km)の平野ステージ。勝者はギュスタヴ・ガリグー。

第11ステージ(7月28日)
ボルドー〜ナント(391km)の平野ステージ。勝者はリュシアン・プティ=ブルトン。

第12ステージ(7月30日)
ナント〜ブレスト(321km)の平野ステージ。勝者はギュスタヴ・ガリグー。

第13ステージ(8月1日)
ブレスト〜カーン(415km)の平野ステージ。勝者はエミール・ジョルジェ。

第14ステージ(8月4日)
カーン〜パリ(251km)の平野ステージ。勝者はジョルジュ・パスリュー。


2.悲劇の男エミール・ジョルジェ

2-1.ジョルジェ家

エミール・ジョルジェは1881年生まれのフランス人サイクリストです。兄にレオン・ジョルジェがおり、二人は1906年開催の第4回において、史上初の兄弟でツール・ド・フランス完走を果たしました。

兄のレオン・ジョルジェはエミール・ジョルジェより2歳年上で、ボル・ドールの父と呼ばれた男です。ボル・ドールは、現在では毎年秋ごろにフランスのポール・リカール・サーキットで開催されるFIM世界耐久選手権シリーズの一戦として知られていますが、元々は1898〜1950年の間に開催されていた自転車トラックレースでした。正式名称は「ボル・ドール24時間耐久ロードレース」です。そして、このボル・ドール24時間耐久ロードレースで、史上最も勝利した人物が、エミール・ジョルジェの兄レオン・ジョルジェです。そのため、彼は「ボル・ドールの父」と呼ばれました。

ちなみに、レオン・ジョルジュの息子は1936年の夏季オリンピックにて、10000メートルで銀メダルを、タンデムで銅メダルを獲得しています。


2-2.大逆転で敗れたエミール・ジョルジェ

1907年開催のツール・ド・フランス第5回では、エミール・ジョルジョの走りは圧巻でした。「1-2.レース概要」を参照いただきたいのですが、エミール・ジョルジュはレース中盤をすぎた第8ステージを終えた時点で、すでに区間5勝をあげていました。

およそこの時点で、誰もがエミール・ジョルジェの勝利を確信していましたことでしょう。しかし、第9ステージで悲劇が起きます。タイム計測地点で落車し、ホイールを破損してしまいます。

そこで、彼はすぐ近くにいたチームメイトとホイールを交換して再び走り出します。しかし、これが当時の競技規則では違反でした。この頃のツール・ド・フランスでは、タイヤがパンクした場合は、自分で持っているスペアタイヤを自分で張り替えなければならず、スペアタイヤを使い果たしてしまったら、パンクしたタイヤで走らなければなりませんでした。また、ホイールに関しては、スタートからゴールまで同じものを使わなければなりませんでした。

そのため、エミール・ジョルジェは第9ステージまでは2位以下とは30ポイントの差をつけていましたが、その第9ステージにておよそ50ポイントのペナルティを受け、区間賞を6つも獲得するも総合では3位になってしまいます。

この不運を当時の新聞が大々的に報道し、エミール・ジョルジェは新聞読者から一身に同情を集めることとなり、優勝者のリュシアン・プティ=ブルトンより注目を浴びました。この頃になると、ツール・ド・フランスは第1回大会とは比べ物にならないほど世間から注目を集めるようになっていて、新聞も各社大々的に扱うようになっていたのです。

ちなみに、第5回のトップ10位は以下の通りです。

1位 リュシアン・プティ=ブルトン(フランス)
2位 ギュスタヴ・ガリグー(フランス)
3位 エミール・ジョルジェ(フランス)
4位 ジョルジュ・パスリュー(フランス)
5位 フランソワ・ボジャンドル(フランス)
6位 エヴェラルド・パヴェシ(イタリア)
7位 フランソワ・ファベール(ルクセンブルク)
8位 オギュスタン・リンジェヴァル(フランス)
9位 アロイ・カトー(ベルギー)
10位 フェルディナン・ペイアン(フランス)


3.初めてアシストを使った男

現在のロードレースにおいては、エースをサポートするアシストの存在なくしては勝利はありえません。例えば、ツール・ド・フランスなら、各チーム9名が出場しますが、基本的にはエース以外の8人は全員アシストです。

しかし、当時のツール・ド・フランスにはそのような体制はありませんでした。一人一人が個人で戦い抜きました。そんな中、この1907年のツール・ド・フランスでは、初めてアシストを使った男が登場します。

彼の名は「アンリ・ペパン・ド・ゴントー」。フランスの男爵です。

アンリ・ペパンは1901年にパリ〜ブレスト〜パリに参加したこともあったのですが、1907年のツール・ド・フランスに参加するにあたって、ジャン・ダルガシエ (Jean Dargassies) とヘンリ・ガウバン(Henri Gauban)の二人を雇います。そして、彼らにアシストさせ、昼は良いホテルで昼休みを過ごし、楽しい休暇気分でツール・ド・フランスを走ります。

三人組は決して急ぎませんでした。ルーベ〜メスの第2ステージでは、エミール・ジョルジェより12時間20分も時間がかかっています。さらに、アンリ・ペパンはレース中にもう一人の選手と契約し、四人組で優雅に走ります。

最終的には、アンリ・ペパンは第5ステージで力尽き、自転車を降りて列車で故郷の城へ帰ります。ただ、この別れ際に、アンリ・ペパンは風よけとなりペースメーカーとなった3人に、レースで勝つ以上のお金を支払います。

こうして、アンリ・ペパンは史上初のアシストを使った選手として名を残しました。


4.まとめ

1907年に開催されたツール・ド・フランスは、非常に盛況でした。優勝者のリュシアン・プティ=ブルトン以上に、新聞各社が優勝を逃した悲劇の男・エミール・ジョルジェを大きく取り上げたことからもそれは明白でしょう。そもそも、第1回大会の時などは、新聞は主催者だったロト紙くらいしか扱わなかったのですから。

そして、この大会では、初めてアシストを使ったレースが展開されました(もちろん、規則としてはルール違反です)。そんなレース運びをした男の名は「アンリ・ペパン・ド・ゴントー」。彼はフランスの男爵で、彼に従えられたサイクリストたちは、ツール・ド・フランスを勝利するよりも高額のお金がもらえたそうです。

こうして幕を閉じた第5回大会ですが、次号では史上初の二連覇が達成された第6回大会をお届けします。


次話【第6回 1908年開催】初の二連覇リュシアン・プティ=ブルトン