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【第3回 1905年開催】レースに勝って、勝負に負けて〜ツール・ド・フランス物語〜

1905年に開催された、第三回ツール・ド・フランス。前年の1904年に開催された第二回大会では上位4選手が失格となる不名誉なレースとなったことで、第三回は色々とルールが変更されました。

では、ツール・ド・フランスはどう変わったのか。そして、優勝は誰が果たし、ロト紙は売り上げ部数を伸ばすことはできたのか。

1905年の第三回ツール・ド・フランスを振り返ってみます。


目次
1.1905年 ツール・ド・フランス第三回開催
 1-1.ルールの変更
 1-2.コース概要
2.優勝者ルイ・トゥルスリエ
 2-1.ルイ・トゥルスリエ
 2-2.レースで勝って、勝負に負けて
3.総合成績
4.鋲まき事件
5.まとめ


1.1905年 ツール・ド・フランス第三回開催

1-1.ルールの変更

上位4選手も失格となり、不正のオンパレードだった1904年のツール・ド・フランス第二回。その反省から、第3回では各ステージの距離は短くなり、スタートも真夜中から昼間に変更されました。そして、走行距離こそ2994キロと若干長くなりましたが、全11ステージの22日間の大会となりました。

また、この年から総合成績は、時間制からポイント制に改められました。
ステージ優勝者に1ポイントを与え、2位は2ポイント、3位は3ポイントとなり、さらに6分遅れるごとに1ポイントずつ加算されました。そして、最もポイントが少ない選手が総合優勝と定められました。

一方で、ルール上では優勝者のタイムの1.5倍を過ぎると失格扱いになる予定でしたが、実際には失格者が多数発生し過ぎてしまい、彼らはペナルティポイントが加算された状態で次のステージへ駒を進めました。

なお、このポイント制ルールは、1912年のツール・ド・フランス第10回まで続けられました。


1-2.コース概要

1905年のツール・ド・フランス第三回では、フランス東部アルザス地方のヴォージュ山脈最高峰バロン・ダルザスを超える本格的山岳コースが採用されていました。

バロン・ダルザスは10キロほどで1178メートルを登る超急勾配のコースです。

多くの選手はこの山を自転車で乗り切れず、みな自転車を降りて押して登りました。しかし、ルネ・ポッティエだけは自転車に乗車して山を越え、このステージで2位に躍り出ると総合トップに立ちます。

が、ルネ・ポッティエはこの山道で全てを使い果たしてしまったのでしょう。翌日にはアキレス腱の炎症でリタイアしてしまいます。


2.優勝者ルイ・トゥルスリエ

2-1.ルイ・トゥルスリエ

1905年開催のツール・ド・フランス第三回の優勝者は、春のパリ〜ルーベで優勝を果たしたルイ・トゥルスリエです。愛称は「トゥル=トゥル」。1881年6月29日、ルヴァロワ=ペレ生まれ。実家はパリ中心部でお花の商売をしており、比較的裕福な家庭出身のロードレース選手です。

1900年夏季オリンピックに出場した後、1902年にプロへ転向。同年のパリ〜レンヌ、トゥールーズ〜リュション〜トゥールーズを制覇。しかし1903年、ボルドー〜パリではイッポリット・オクテュリエに次いで2位でゴールするも、不正行為を行い数日後に失格となります。

そうして迎えた1905年、パリ〜ルーベで優勝を果たすと、第3回ツール・ド・フランスでは、第1、3、5、7、9ステージを制し、総合優勝者となります。この時の総合2位はイッポリット・オクテュリエでしたが、彼に26ポイントもの差をつけての総合優勝でした。


2-2.レースで勝って、勝負に負けて

ルイ・トゥルスリエが1905年の第3回ツール・ド・フランスに参加した時、彼はフランス兵士でした。しかし、ルイ・トゥルスリエはツールに参加するために数日の公式休暇を取って出場します。

ルイ・トゥルスリエが当レースで記録した数字は、すべてが素晴らしいものでした。平均スピード27.48キロ、走行に要したトータルタイム110時間26分58秒、ポイントは35ポイント。2位のイッポリット・オクトゥリエが61ポイント、3位のジャンバプティスト・ドルティニャックが64ポイントでしたから、誰が見てもルイ・トゥルスリエの圧勝でした。

ちなみに、この年の出場者は60名、完走者は24人でしたが、区間賞を獲得したのは上位3名だけでした。総合1位のルイ・トゥルスリエが区間5勝、2位のイッポリット・オクトゥリエと3位のジャンバプティスト・ドルティニャックがそれぞれ3勝を挙げただけでした。

このように、ツール・ド・フランスのレースでは、ルイ・トゥルスリエは圧勝しています。しかしその直後、ルイ・トゥルスリエは勝負には負けています。優勝賞金4フランを手にしたルイ・トゥルスリエでしたが、彼はその夜、パリの線路脇の小屋で博打を打ち(一説によれば更衣室でマッサージを受けながら賭けポーカーして)、獲得賞金をすべて失ったそうです。

その後、ルイ・トゥルスリエはは1906年の第4回ツール・ド・フランスで区間4勝を挙げ、総合3位。1908年にはボルドー〜パリを制覇したりするも、1914年に勃発した第一次世界大戦により現役を引退しました。


3.総合成績

1905年開催の第3回ツール・ド・フランスは、10位入賞はフランス勢が占めました。

1位 ルイ・トゥルスリエ(フランス)
2位 イポリト・オクトゥリエ(フランス)
3位 ジャンバプティスト・ドルティニャック(フランス)
4位 エミール・ジョルジェ(フランス)
5位 ルシアン・プティブルトン(フランス)
6位 オギュスタン・リンジェヴァル(フランス)
7位 ポール・ショヴェ(フランス)
8位 フィリップ・ポトラ(フランス)
9位 ジュリアン・ガボリ(フランス)
10位 ジュリアン・メトロン(フランス)


4.鋲まき事件

ロト紙の編集長でありツール・ド・フランスのレースディレクターでもあるデグランジュは、1905年の第3回目より、自転車レースに反対する人々との摩擦を避けるため、あらかじめゴール地点をそれまでの都市中心部から周辺部へ移設していました。しかし、レースが開始してすぐの第1ステージにて、早速事件が発生します。自転車レース反対派の一部がコース上に鋲をばらまいたのです。

これにより、パンクや転倒を恐れた選手が激昂。第3回目にしてツール史上最初のストライキが起きました。

この時の参加者は、先にもお話ししましたが60名。うち、ゴールまで完走したのは15名。初日で四分の一となってしまいます。しかし、これではレースにならないので、大会本部は本来失格の選手でも翌日のスタートに姿を現した30名についてはペナルティ75ポイントを加算してスタートさせました。

この事件は他紙も詳しく報道しました。そのため「鋲まき事件」として世間を騒がせる大事件へと発展し、結果、ロト紙はしばしば売り切れました。

この売り上げ部数増加に、編集長のデグランジュが微笑んだかどうかはわかりません。ただ、現実的に売り上げ部数が伸びたことから、「この鋲まき事件はデグランジュが仕込んだ自作自演ではないか」との噂も流れたほどでした。


5.まとめ

列車や伴奏車に乗ったりと、第2回で大スキャンダルを起こしたツール・ド・フランスでしたが、その反省を活かすべく、1905年開催の第3回では大幅にルールが改正されます。

まず、各ステージの距離が短くなり、スタートは真夜中から日中に移されました。そして、走行距離こそ2994キロと若干長くなりましたが、全6ステージから全11ステージの22日間の大会となりました。

また、総合成績は時間制からポイント制に改められました。
ステージ優勝者に1ポイントを与え、2位は2ポイント、3位は3ポイント。さらに6分遅れるごとに1ポイントずつ加算され、最もポイントが少ない選手を総合優勝者とするようになりました。

この大会の覇者はルイ・トゥルスリエ。花屋の子供だったこともあり、トゥル=トゥルとの愛称で人気を集めた選手でした。彼は圧倒的な実力のもと、第1、3、5、7、9ステージを制し、総合優勝者となります。この時の総合2位はイッポリット・オクテュリエ。彼はトップのルイ・トゥルスリエに26ポイントもの差をつけられます。

しかし、ルイ・トゥルスリエはレースでは勝ったものの、その後の勝負では負けてしまいます。彼は手にした優勝賞金4千フランを賭け事でその日のうちに失います。

一方、ツール・ド・フランス開催以降、ロト紙の売り上げは年々上昇しました。
第1回こそ目立った伸びは見られませんでしたが、第2回後は不正行為により皮肉にも売り上げ部数を伸ばし、さらにこの第3回でも、不名誉なことに鋲まき事件によってロト紙は名を売りました。

今でこそ世界最大の自転車レースとして名高いツール・ド・フランスですが、当時はまだまだ未熟だったことが伺えます。

では、次回は山岳王が誕生した1906年の第四回のお話を。


次話【第4回 1906年開催】初代山岳王の悲劇