【第2回 1904年開催】19歳のチャンピオン〜ツールドフランス物語〜
1904年に開催された、第二回ツール・ド・フランス。第一回目を「大成功」とまでは導けなかったロト紙ですが、第二回目ではそれどころの話ではなく、自転車レース界を震撼させる大スキャンダルが勃発します。
そのスキャンダル発覚時に、デグランジュ(ツール・ド・フランス創始者)はこう語ったと言われています。
「ツールは死んだ」
いったい、ツール・ド・フランス第二回大会の開催で何があったのか。レースは無事終えることができたのか。そして、結局は誰が優勝を果たしたのか。
1904年の第二回ツール・ド・フランスを振り返ってみます。
1.ツール・ド・フランス第二回開催
1-1.スポンサー
第二回ツール・ド・フランスは、1904年7月2日から24日にかけて開催されました。前年度の第一回と同じく、6ステージ2428キロで争われました。
この1904年の第二回大会では、自転車メーカーが何名かのチームスポンサーになりました。例えば、前年覇者のモーリス・ガランと2位のリュシアン・ポティエ、モーリスの弟のセザール・ガランは、ラ・フランセーズ・チームに属しました。一方、モーリス・ガランのライバルだったイッポリット・オクテュリエはプジョー・チームに属しました。
しかし、チームに属したと言ってもレースには何ら影響しませんでした。当時は自転車レースに戦術などなく、個人タイムトライアルのようにただひたすら自力で疾走するだけでした。
1-2.ルール
第二回ツール・ド・フランスでは、いくつかの特別ルールが設けられていました。
チェックポイント以外での補給やペーサーは、前年同様禁止でした。
ペーサーとは、別の選手を風除けにすることです。現在ではごく当たり前の戦術として活用しますが、当時のツール・ド・フランスではほぼすべてのステージで禁止されていました。ですから、選手は個人タイムトライアルさながらに自力で走って勝負するしかありませんでした。
一方で、通行人が選手の自転車に近づくのは禁止されていませんでした。
第2回の参加選手は、第1回と比べて20名以上増加の87名に上りましたが、実際のスタート直後には一般のサイクリストが憧れの選手と一緒に走りたいと考えたのか、選手以外の一般人が入り混じり、コースを走っていた人数は参加選手の倍以上だったと言われています。また、今のようにコースが閉鎖されていなかったので、農作物を積んだ馬車や荷車にコースを塞がれることも珍しいことではありませんでした。
1-3.ゴールシーン
伴走者もほとんどいなかったこの時代では、各ステージに数カ所のチェックポイントが設けられていました。選手はそこで一旦停止し、サインをして通過しました。あるいは、「移動チェックポイント」と呼ばれるものも2、3箇所あったらしく、走りながら自分のゼッケン番号を口頭で伝え通過しました。
ゴールシーンの環境も今とは大きく異なりました。
1904年の第2回では、半分のステージではゴールの街へ到着後、選手はそのままニュートラル状態でトラック競技場へ移動し、そこを二周して勝敗を決めました。先述の通り街中ではコースを封鎖していないため、ゴールスプリントになった時に一般人を巻き込む事故が発生する危険があったからです。
2.スキャンダル発生
2-1.原因はスタート時間?
第1回大会では、6ステージ中5ステージが夕方6時頃のスタートでした。しかし、第2回ではゴールを午後に設定したことで、各ステージのスタートは真夜中になりました。
そのため、道を照らしてくれる伴走者は不可欠となったのですが、当時はまだ車そのものが珍しい時代でした。したがって、実際に伴走できた車の数は非常に少数でした。
こうした状況になると、主催者はどこで誰が走っているのかまるで把握できないため、ただ選手たちの申請を信じるしかありませんでした。しかし、これが誤りのもとでした。結果的には、選手は主催者を大きく裏切ります。そして、開催たった2回目にして、史上最大のスキャンダルを引き起こしてしまいます。
多くの選手が、信じられないような不正行為を働いたのです。
2-2.上位4選手が失格
1904年7月24日のレース終了後においては、1位と2位は前年と同じでした。優勝はモーリス・ガラン、2位はルシアン・ポティエ。そして、3位はモーリス・ガランの弟セザール・ガラン、4位はイッポリット・オクテュリエでした。そのため、ツール・ド・フランス第1回と第2回の連覇を果たしたモーリス・ガランは、同チームのポティエや弟セザールとともに祝勝会をあげたそうです。
しかし、レース終了4ヶ月以上も経過した11月末のことでした。フランス自転車連盟が、この順位を覆してしまいます。上位4選手は全て失格。さらに、完走者27人のうち、約半分の12人が失格となります。そして、失格者は1年間の出場停止処分から、永久追放までの処分が下されました。もちろん、賞金は全て返却です。
彼らは一体何をしたのか。
全部が明らかになったわけではないようですが、スタートが夜中になったことをいいことに、夜影に紛れて色々な不正を働いたそうです。
レース中、列車を使って移動した。
伴奏車の車に乗っていた。
伴奏車につかまって走った。
今では考えられないような不正が各ステージで起きたようです。そして、誰かがその所業をフランス自転車連盟に密告し、モーリス・ガラン、シアン・ポティエ、セザール・ガラン、イッポリット・オクテュリエの上位4選手は失格となりました。その結果、19歳のアンリ・コルネが繰り上がり優勝を果たし、史上最年少チャンピオンが誕生しました。
2-3.その他の不可解な事件
1904年開催のツール・ド・フランス第2回は、列車の使用などの不正行為以外にも、いくつかの不可解な事件が起きています。
例えば、優勝したコルネ。彼はレース中に突如睡魔に襲われて、道路脇の溝に転げ落ちています。さらに、チキンを食べた直後に突然の吐き気を訴えた、という記録も残っているそうです。当時のルールでは知らない人から食料を受け取ったり、自転車を借りることも認められていました。ですから、確実なことこそは言えませんが、何者かが薬を飲ませたりした可能性は否定できません。
また、他の選手も痒みを引き起こす薬を撒き散らされて、あまりの痒さに発狂しそうになったことも頻発したそうです。さらに、スタート前にブレーキレバーが破壊されていたり、フレームにノコギリで切り込みが入れられていたりという事件も一回や二回ではなかったそうです。
他にも、釘をばら撒きながら走った選手がいるのでは?という噂が流れるほどパンクも多く、ひいきの選手を援護するためにフリーガンもどきの集団が他の選手たちに襲いかかり、審判がピストルで威嚇した、との記録もあるようです。
今では考えられないような事件が、当時のツール・ド・フランスでは起きていたのです。
3.19歳のチャンピオン
3-1.史上最年少 王者アンリ・コルネ
アンリ・コルネはフランスのパ=ド=カレー県デブレ出身のロードレース選手です。本名「アンリ・ジャルドリ(Henri Jardry)」。1904年のツール・ド・フランス第2回では、第3ステージを制して総合5位に入賞しますが、先述の通り上位4選手が失格となったため総合優勝者となりました。
優勝当時、コルネは19歳11ヶ月。
この年齢は今でもツール・ド・フランス史上最年少総合優勝記録として残ったままです。
コルネはその後、ツール・ド・フランスに7回出場します。しかし、2度目の優勝を飾ることはできず、結果的には1908年の8位が最高でした。ただ、1906年にはパリ〜ルーベで優勝を果たしています。
3-2.史上最高齢 完走者アンリ・パレ
ツール・ド・フランス第2回では、優勝者が史上最年少でした。しかし、この大会ではツール史上最高齢完走者も誕生しています。アンリ・パレ、50歳です。
しかも、彼は完走者27人のレースで総合11位に入っています。優勝したコルネとは32時間以上の差がありましたが、50歳でのツール・ド・フランス完走者は、後にも先にも彼だけです。
3-3.第2回ツール・ド・フランス総合成績
第2回ツール・ド・フランスは上位4選手が失格となり、最終的には以下のような成績となりました。
1位 アンリ・コルネ(フランス)
2位 ジャンバプティスト・ドルティニャック(フランス)
3位 アロイ・カトー (ベルギー)
4位 ジャン・ダルガシエ(フランス)
5位 ジュリアン・メトロン(フランス)
6位 オギュスト・ドメン(フランス)
7位 ルイ・コールセット(ベルギー)
8位 アキユ・コラ(フランス)
9位 ルネ・サジェ(フランス)
10位 ギュスタヴ・ドリウル(ベルギー)
4.まとめ
開催たった2回目にして、驚きのスケールでの不正が行われたツール・ド・フランス第2回。スタートが夜中になったことをいいことに、夜影に紛れて列車に乗ったり、伴走車に乗ったり、今では考えられないほど大胆な不正が多発。結果、完走者27人のうち約半分の12人が失格となります。
さらに驚きなのは、上位入賞者の不正発覚率です。
レース終了当初は、優勝はモーリス・ガラン、2位はルシアン・ポティエ、3位はセザール・ガラン、4位はイッポリット・オクテュリエでした。しかし、その4人全てが不正行為を行ったとして、全員失格。結果、5位だったアンリ・コルネが繰り上がり優勝を果たします。
アンリ・コルネは、当時は19歳11ヶ月でした。
そのため、史上最年少総合優勝を記録するのですが、この記録は未だ打ち破られていません。
一方、このレースでは史上最高齢の完走者も生んでいます。
アンリ・パレ、50歳です。
こちらの記録も、未だ打ち破られていません。
いずれにせよ、開催たった2回目にして、ツール・ド・フランス史上最大の汚点を残すこととなったのですが、ロト紙の売り上げは若干伸びたそうです。
編集長のデグランジュも、きっと複雑な心境だったことでしょう。ほんの少し、同情します。
次話【第3回 1905年開催】レースに勝って、勝負に負けて