【第7回 1909年開催】勝者は、悪天候に強い大食漢 〜ツール・ド・フランス物語〜
1909年に開催された第7回ツール・ド・フランスは、雨や寒さなどが酷い、史上最も悪天候なレースとなりました。
そんな過酷なレースの覇者は、フランソワ・ファベール。初のフランス国籍以外の優勝者でした。
そんなフランソワ・ファベールには、いくつもの伝説や逸話が残っています。そこで今回は、第7回ツール・ド・フランスの覇者フランソワ・ファベールを中心にレースを紹介したいと思います。
1.1909年 ツール・ド・フランス第7回開催
1-1.前回大会との変更点
1909年に開催されたツール・ド・フランス第7回は、前回大会とほぼ同じルートが組まれ(距離は同じ4,488km)、ステージ数も14、開催期間も28日間と全く同じでした。また、この年のレースもポイントシステムが導入されており、ステージの勝者は1ポイント、2位のサイクリストは2ポイント、というように続き、レース終了時にポイントが最も少ないサイクリストが勝者となりました。
しかし、この第7回では、前回大会までとは大きな変更点がいくつかありました。今回はその中でも特筆すべき3つつについて、以下にご紹介いたします。
1-1-1.フレームの使用について
1908年までは、サイクリストはツアー提供のフレームを使用する必要がありました。しかし、1909年に開催されたこの第7回大会にて、当該ルールは廃止になりました。
ただ、依然として1つの自転車しか使用できないよう、自転車にはスタンプが付いていました。
1-1-2.チームとしての参加
1907年の第5回ツール・ド・フランスでは、アンリ・ペパン・ド・ゴントー伯爵が史上初めてアシストを使ったレースを展開しましたが、その二年後のこの大会では、参加選手は「グルーペ」と呼ばれるチームスポンサーを持つ選手と、「イゾレ(単独、の意)」と呼ばれるスポンサーを持たない個人参加のサイクリストに区分けされるようになりました(このグルーペやイゾレといった呼び方は、その後いろいろと変更されましたが、このシステム自体はは1938年まで続きました)。
1909年のこのレースには、大多数の112名がスポンサーを受けていないイゾレに属し、38名は7社のスポンサー(Nil–Supra、Alcyon、Biguet–Dunlop、Le Globe、Atala、Legnano、Felsina)のチームに所属しました。そして、各スポンサーのチームには3〜6人のサイクリストが参加しました。
ところで、主催者であるデグランジュは、当初、グルーペの選手達がチームごとに団体で走ることばかりか、一緒に寝泊まりすることすら禁止しようとしました。デグランジュとしては、ツール・ド・フランスは最初から最後までサイクリストが独力でレースを完走するような、個人戦を想定していたからです。
しかし、そんなデグランジュの思惑とは別に、ツールのレベルが上がり、レース自体がハイスピードになると、チームで協力することはますます重要性を増すようになりました。
1-1-3.トイレの設置
1909年の第7回大会までは、主催者によるトイレの設置はありませんでした。しかし、今大会から参加サイクリストが観客の前で排尿しなくてもいいよう、チェックポイントにバスルームが設置されるようになりました。
1-2.レース概要
1909年のツール・ド・フランス第7回大会には、グルーペ38名、イゾレ112名の計150名が参加し、うち55名が完走しました。
グルーペの中でもアルシオンがスポンサーを務めるサイクリストは非常に強いチームでした。14ステージ中13ステージを獲得しています。第7ステージだけが、アルシオンがスポンサーとなっているサイクリストではなく、スポンサーなしのアーネスト・ポールが優勝しています。が、彼は1909年ツール・ド・フランス優勝者フランソワ・ファベールの異母兄弟です。
また、今大会ではフランス国籍以外の一流選手も多数参加しており、イタリア人19人、ベルギー人5人、スイス人4人、ドイツ人1人、ルクセンブルク人1人の30名が参加しています。
そして、優勝者はルクセンブルク人のフランソワ・ファベール。所属はアルシオン。さらに、ファベール大会史上2番目の若さでツールを優勝しています。彼の記録は1904年の第2回大会の覇者アンリ・コルネ(19歳11ヶ月)に次ぐ若さ(22歳7ヶ月)での勝利でした。
なお各ステージの概要は以下の通りです。
- 第1ステージ(7月5日)
パリ〜ルーベ(272km)の平野ステージ。勝者はシリル・ファン・ハウワート 。 - 第2ステージ(7月7日)
ルーベ〜メス(398km)の平野ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。 - 第3ステージ(7月9日)
メス〜ベルフォール(259km)の山岳ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。 - 第4ステージ(7月11日)
ベルフォール〜リヨン (309km)の山岳ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。 - 第5ステージ(7月13日)
リヨン〜グルノーブル(311km)の山岳ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。 - 第6ステージ(7月15日)
グルノーブル〜ニース(345km)の山岳ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。 - 第7ステージ(7月17日)
ニース〜ニーム(354km)の平野ステージ。勝者はアーネスト・ポール。 - 第8ステージ(7月19日)
ニーム〜トゥールーズ(303km)の平野ステージ。勝者は ジャン・アラボイン。 - 第9ステージ(7月21日)
トゥールーズ〜バイヨンヌ(299km)の平野ステージ。勝者はコンスタント・メナジャー 。 - 第10ステージ(7月23日)
バイヨンヌ〜ボルドー(269km)の平野ステージ。勝者はフランソワ・ファベール。 - 第11ステージ(7月25日)
ボルドー〜ナント(391km)の平野ステージ。勝者はルイ・トルセリエ 。 - 第12ステージ(7月27日)
ナント〜ブレスト(321km)の平野ステージ。勝者はギュスターヴ・ガリゴー。 - 第13ステージ(7月29日)
ブレスト〜カーン(415km)の平野ステージ。勝者はポール・デュボック。 - 第14ステージ(8月1日)
カーン〜パリ(251km)の平野ステージ。勝者はジャン・アラボイン。
2.大荒れだった空模様
2-1.悪天候の女神
最初の第1ステージは、ベルギーのシリル・ファン・ハウワートが優勝し、ツール・ド・フランスの歴史において初めて、フランス人以外がレースをリードしていました。しかし、素晴らしく恵まれた天候は徐々に悪化し、やがて嵐が訪れると、それからの天候は文字通りの大荒れ。特に第2、第3ステージは酷い雨で、膝まで埋まるほどの泥の中で37名のサイクリストがレースを棄権します。
しかし、初の外国人選手で優勝を果たすこととなるフランソワ・ファベールは、悪天候に強いサイクリストでした。大荒れだった空模様の第2、第3ステージでは、両方とも2位に30分以上の差をつけてステージ優勝を果たします。
ファベールは悪天候になればなるほど、後続を引き離しました。そして、彼はその勢いのまま4、5、6ステージでも勝利を収め、5連続ステージで優勝。この5つのステージの連続優勝記録は未だ破られていません。
2-2.ファベールを見舞ったトラブル
悪天候の中圧倒的な力を発揮したファベールでしたが、彼に何のトラブルも起きなかったわけではありません。
第3ステージは、気温4℃という過酷な環境にて、ファベールの自転車は最後の1キロで故障。彼は自転車をかついでフィニッシュします。また、第5ステージでは、ファベールは強風で一度は吹き飛ばされるものの、再び自転車にまたがります。が、その後、彼は馬に蹴り倒されるというアクシデントに見舞われます。
そして最終ステージの第14ステージでは、本来ならファベールにとって戴冠式の場となる町のはだったパリでしたが、先頭でこの街へ入って来たのはいいものの、街に入ってすぐにチェーンが切れてしまいます。そこで、彼は仕方しく自転車を押して走りだすのですが、それを見守る観客は大興奮。沿道はお祭り騒ぎになります。
しかし、終わってみれば結局は6分半の遅れでステージ3位。こうしてフランソワ・ファベールは優勝を手にします。
ちなみに、ファベールは翌年の第8回にも参加し、第2ステージから第12ステージまでは総合トップを守りますが、途中で犬に襲われて落車。大怪我に見舞われ、最後に逆転を許し、結果的には主意に4ポイント差の2位に終わります。
それでも、フランソワ・ファベールは、その後もツール・ド・フランスで活躍し、最終的には19ステージでの優勝を獲得しています。
4.フランソワ・ファベールの逸話
3-1.コロンブスの巨人
フランソワ・ファベールは1887年にフランスで生まれたルクセンブルク人です。ツール・ド・フランスの初参加は19歳の時の1906年第4回大会。この時は完走することはできませんでしたが、翌年には総合7位、1908年には総合2位にまで上り詰めます。
ファベールは非常に体格がよく、慎重派186センチ、体重は91キロ、肺活量は6リットルにも及び、彼はルクセンブルク人でしたがパリ近郊のコロンブスに住んでいたこともあって、「コロンブスの巨人」とのあだ名が付けられていました。
3-2.人気者のファベール
ファベールは快活な人柄だったこともあり、非常に人気のあるサイクリストでした。ツールではいつでも300通近くのファンレターが届いたとの逸話も残っています。
また、ツール優勝を果たした1909年第7回では、ファベールが5ステージ連続優勝を果たす姿を一目見ようと、悪天候の中、第6ステージのフィニッシュラインには20,000人が集まったそうです。
3-3.大食漢
フランソワ・ファベールは非常に大食いだったとして語り継がれています。この1909年のツールでも、レース期間中にカツレツを168枚も食べたそうです。
しかし、この大食いぶりが2年後には災いし、休養日のマルセイユで食中毒になりリタイアします。というのも、同じくツールに参加していた異母兄弟のアーネスト・ポールと二人で、16人前の牡蠣を食べたからでした。
このとき、ポールは医者に家族と神父を呼ぶように言われたほどの症状に見舞われたそうですが、ファーベルは一晩で体調を回復させ、翌日のステージには参戦し、最終的には8位入賞を果たしました。
3-4.英雄的な死
1905年・1906年とツール・ド・フランスを連覇した英雄リュシアン・プティ=ブルトンは第一次世界大戦で命を落としましたが、1907年の覇者フランソワ・ファベールもまた、第一次世界大戦で亡くなっています。
ただ、リュシアン・プティ=ブルトンは悲運な死を遂げましたが、フランソワ・ファベールは英雄的な死を遂げました。彼はルクセンブルク人でしたが、191年8月22日、バイヨンヌにてフランス人外人部隊に配属されます。そして、1915年5月9日、アラス近くのカーレンシーにてアルトワの戦いの初日に、を助けようとして被弾。28歳の若さで、多くの人に惜しまれつつこの世を去ったのでした。
この功績により、ファベールは死後、勲章を授与されています。そして、彼の名にちなみ、ルクセンブルクの小さなレースで「GPフランソワ・ファベール」が開催されるようになりました。
4.総合順位
4-1.総合順位
優勝はフランソワ・ファベール。初のフランス国籍以外の選手です。
なお、第7回の一般レースのトップ10位は以下の通りです。
1位 フランソワ・ファベール(ルクセンブルク)アルシオン
2位 ギュスタヴ・ガリグー(フランス)アルシオン
3位 ジャン・アラボイン(フランス)アルシオン
4位 ポール・デュボック(フランス)アルシオン
5位 シリル・ファン・ハウワート(ベルギー)アルシオン
6位 アーネスト・ポール(フランス)
7位 コンスタント・メナジャー(フランス)ルグローブ
8位 ルイ・トルセリエ(フランス)アルシオン
9位 ウジェーヌ・クリストフ(フランス)
10位 アルド・ベッティニ(イタリア)
4-2.アーネスト・ポール
アネスト・ポールは、1909年ツール・ド・フランスの優勝者フランソワ・ファベールの異母兄弟です。1881年、フランス東部で生まれました。国籍はファベールとは異なり、フランスです。
ポールは、この1909年のツールでは、一般では総合6位でしたが、「イソレ(スポンサーなし)」」のカテゴリーでは優勝しています。
彼の最高記録はこの6位ですが、ツール・ド・フランスには7回参加し、6回完走。ステージ優勝は2回(この1909年の第7ステージと、、翌1910年の第11ステージ)。また、トップ10入賞を3回果たしています。
1964年、82歳の時にサンガシアンデボワで亡くなりました。
5.まとめ
1909年に開催された第7回ツール・ド・フランスは、史上最も悪天候に見舞われ、非常に過酷なレースとなりました。
そんな過酷なレースを制覇したのは、ルクセンブルク人のフランソワ・ファベール。初のフランス国籍以外の優勝者でした。彼は悪天候に強いサイクリストであり、非常に大食漢であることで有名でした。
しかし、その人当たりの良さからとても高い人気を誇り、ファベールが5ステージ連続優勝を果たす姿を一目見ようと、悪天候の中、第6ステージのフィニッシュラインには20,000人が集まり、優勝を決定づけるゴールラインにも多くの人が集まったそうです。
一方、この第7回からは、参加選手は「グルーペ」と呼ばれるチームスポンサーを持つ選手と、「イゾレ(単独、の意)」と呼ばれるスポンサーを持たない個人参加のサイクリストに区分けされるようになりました。そして、グルーペの優勝者がフランソワ・ファベールなのですが、イゾレの優勝者は彼の義理の弟・アーネスト・ポールでした。
こうした幕を閉じ、第8回へとツール・ド・フランスは続いていくのですが、その話はまた次回。また元気にお目にかかります。